千山明

バラ色のキャンパスライフなど存在せんのだ。なぜなら世の中はバラ色ではない。実に雑多な色をしてるからね。

 NIRVANAに感染しロクに高校も行かなかった17の時、俺は地元の悪友たちと集団的に堕落していた。へなちょこなギターをスタジオでかき鳴らすこと。左手に氷結、右手にラッキーストライクで深夜の街を徘徊すること。そして、平日の昼間から旬のアニメを食いいるように観賞すること——。

 『NEVER MIND』を狂ったようにリピートしながら、行き場のない苛立ちを仲間と発散してきた経験はしかし、これまでの人生の中でもっとも無軌道で無目的なそれであったがゆえに、俺の財産となっている。カート・コバーンのセンチメンタルなコーラスとノイジィなディストーションからなる静と動の応酬がいまだに俺のバイオリズムを律しているように、思春期に受けとった強烈な感覚経験はその受容者の身体に深く刻みこまれているものなのだ。そうして記憶を遡行していくと、いつもある地点に行きついてしまう。

 俺がASIAN KUNG-FU GENERATIONを知ったのはもちろん『NARUTO』中忍試験編のオープニングテーマ『遙か彼方』で、そのときはアジカンにたいした印象を抱かなかったように思う。けれども中学生になってアルバム『ソルファ』をはじめて聴き通した直後、俺はもう完全に彼らに心酔してしまっていた。イラストレーター中村祐介が手がけるユニークなジャケットにもいい知れぬ魅力があり、それが心をくすぐって仕方がなかった。

 彼らの視聴覚的な表現が絶妙に織りなす物語は、思春期の傷つきやすくて自閉的な世界を外界から守る保護膜として機能した。俺はその物語に耽溺しているあいだだけ、いくらかの精神的危機から解放されて「ここではないどこか」を自在に生きていた。結果として、ティーンネイジャー固有の鬱屈感を健全に処理する術を手に入れることができたし、偏狭な想像力のバルブをいくばくか拡張することもできたのだと思う。とにかく「アジカン/中村」は、豊かな地方都市に退屈しきったある中学生の不安定な精神に、ピンポイントで突き刺さる何かを残していったのだった。

 そのツータッグのテイストが、森見登美彦の小説を題材としながらアニメーションとして新たに結晶したのが2010年。高校2年の秋、そのとき俺は相変わらず友人たちと堕落しながら『四畳半神話体系』を見ていた。当時の最新曲、『迷い猫と雨のビート』からアニメが始まり、中村の描くキャラクターが動き声を発していた。「アジカン/中村」の世界観に森見の世界観が重ねられ、俺の世界認識と融合することで、新たな物語が発酵しつつあった。観賞を通じて、そう遠くない将来に自分もなるかもしれない「大学生」なる存在について漠然とイメージをふくらませていたのだ——。

 ところで、俺は「大学生」を通過してもはや「大学院生」になってしまった。『四畳半神話体系』を土台に形成していた「大学生」イメージは、かくも劣悪な現実によって入学早々打ち砕かれたわけだが、俺もしばらくのあいだそのイメージと現実の齟齬を引きずり、うまく対象化することができなかったように思う(あるいはその問題は別の文脈や別の手段によって補完されてしまったので、改めて腰を据えて着手すべきそれとしては浮上してこなかったのだ)。とにかく、俺は「大学生」が退屈で仕方がなかった。そしてその反動から、現実を妥当に認識可能とするパースペクティヴを求め続けた結果、こんなところまで行き着いてしまった………。けれどもそのことによって、今では樋口の言っていることが十全に理解できるし、正面から反論することもできるようになったのだ。なにせ樋口が大学八回生だったのにたいして、俺は実質的には大学九回生になったのである。

『四畳半神話体系』の粗筋を紹介することよりも、その物語構造を劇中の展開に内在しながら取り出すことから始めよう。そして、その物語によって暗示されているさらに上位の物語の存在について言及していこう。四畳半の神話体系とは何であり、その先に何があるのか——。とはいえ、主要登場人物ぐらいは紹介する必要がある。ここでは、アクの強いキャラクターの中でも4人に触れるだけで十分だ。


©︎四畳半主義者の会

○「私」

主人公で物語の語り部。小汚いボロアパート「下鴨幽水荘」に住む(モデルは京都大学の吉田寮)。プライドが高く臆病な性格で、バラ色のキャンパスライフを送る学生たちを羨望しすぎているがゆえに見下している卑屈で自信のない大学三回生。一回生のときサークル選びを誤り、くすぶった生活を送っている。「黒髪の乙女」とのプラトニックな恋愛関係を欲望する童貞。明石さんが失くした「もちぐまん」を偶然拾う。


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○明石さん

「私」より一学年下の女子大生。理知的で他人を突き放す冷たさを放っている。奇譚のない言動で周囲から距離を置かれがちだが、「私」は自分の芯を貫く明石さんに一目置いている。「もちぐまん」という戦隊キャラクターを愛好しているのだが、そのうちの一体を紛失してしまう。コアなファンにのみ知られている神出鬼没のラーメン屋「ねこラーメン」へ連れて行って欲しいと「私」と約束するのだが………。


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○小津

「私」と同学年の悪友。偏食家で顔色がわるく、妖怪のような顔貌だと「私」には認識されている。他人の不幸を目の当たりにすることが何よりの快感という怠惰で天邪鬼な性格の持ち主。ことあるごとに「私」をそそのかし、尋常ではない人脈と超人的な立ち回りを駆使しながら共に悪事を働く。


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○樋口清太郎

「私」とおなじ「下鴨幽水荘」に暮らす大学八回生。浴衣と高下駄を常に着用しており、浮世だった存在感を放っている。普段どこにいて何をしているか謎だが、小津からは「師匠」と呼ばれ慕われており、得体の知れない余裕さや悟り澄ました雰囲気が感じられる自由人。多くは語らないが、時に核心的な言動によって「私」を導く。


 『四畳半神話体系』はこうした個性豊かなキャラクターたちによって彩られている。「私」の特徴的なモノローグが物語の基調をなしているし、小津の行動に周囲が巻き込まれることで場面が変化していくことも多い。にもかかわらず、キャラクター主導で物語が展開していくというわけではない。確固とした形式が作者から与えられることによって全体が構成されているという印象をやはり覚える。では、その形式とは何か。以下遠慮なくネタバレしていくが、端的にいうと『四畳半神話体系』は「並行世界・ループもの」である。全11話は次のように二つのパートに分けることができるだろう。

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【パートA】
1 テニスサークル「キューピット」
2 映画サークル「みそぎ」
3 サイクリング同好会「ソレイユ」
4 弟子求ム
5 ソフトボールサークル「ほんわか」
6 英会話サークル「ジョイングリッシュ」
7 サークル「ヒーローショー同好会」
8 読書サークル「SEA」
9 秘密機関「福猫飯店」 

【パートB】
10 四畳半主義者
11 四畳半紀の終わり

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 一話さえ押さえてしまえば、【パートA】を押さえたも同然だ。冒頭、下鴨神社にて「ねこラーメン」をすする「私」は樋口に絡まれる。たびたび下宿先で見かける程度の仲であったが、この日樋口は自らを「縁結びの神」と僭称し、わけのわからない話を切り出す。明石さんと誰を恋仲にするのか——貴君か小津か、私が決定できる——そう言うのだ。それまで口を交わしたことがないのにもかかわらず、「私」の詳細なプロフィールをなぜか掌握している樋口にこれまでの人生の痛々しいあれこれを指摘されるなかで、「私」はこの男が只者ではないと驚愕する。


©︎四畳半主義者の会

 そこでオープニングが挿入、場面は変わる。大学一回生の春、多種多様なサークル勧誘で活気づいた大学構内のムードに「私」は幻惑され、バラ色のキャンパスライフの到来を予感する。だが「私」が選択したテニスサークル「キューピット」は、明るい性格の人間たちが清く朗らかに男女交際をなしているクリーンな団体であり、性根が根暗で非社交的で異性慣れしていない「私」にはハードルが高すぎた。入った当初はそんなサークルの雰囲気に溶け込もうと涙ぐましい努力をするものの、「リア充」らと自身の根本的な差異を認識し、どうしようもない居心地の悪さを感じてしまう。そんな矢先に、同じくサークル内で行き場のなかった小津と共鳴し「リア充」を撲滅すべく共同戦線を張るに至る。


©︎四畳半主義者の会

 最初は「キューピット」構成員それぞれにフェイクを流し、内部から人間関係を撹乱することで操作的にサークルクラッシュを引き起こす程度であった。ひょんなことで知り合った明石さんからは、そうして活動するたびに「先輩。また阿呆なことをしましたね」と揶揄われ「私」に(「ねこラーメン」へ連れていく)約束を果たすよう促すのだが、当の「私」はその約束がなんであったかを忘却している(……鈍感ッ)。


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 そんな明石さんのサインには全く気づかずに、「私」は小津にそそのかされるまま「リア充」撲滅活動へと一層のめりこんでいく。小津の天才的な手腕のもと他人の弱みを握り、あることないこと吹き込んで、キャンパス全体、ひいては京都の町に遍在しているカップルにまで計略的・直接的な攻撃を加え、そこら中に不幸をバラ撒く。殊勝なことに、「私」は貴重な大学生活の二年間をルサンチマンの発散という不毛な活動へ溶かしていることに半ば気づきつつも、今更やめるわけにはいかないと虚勢を張り続けたのであった。

 その日、「私」と小津は鴨川でチルしているカップルらに鉄槌を下すべく、対岸からロケット花火を打ち込む。追手の反撃を振り切り無我夢中で逃走していると、「私」はいつの間にか並々ならぬ妖気を漂わせる占い師のもとへと行き着いていた。そして占い師は「私」にむかい言うのだった。


©︎四畳半主義者の会

とにかく好機を逃さないことが肝心じゃ。好機はいつでも貴方の目の前にぶら下がってございます。貴方はその好機を捉えて行動に出なくちゃいけません

 「私」は老婆の得体の知れない説得力に感服するものの、そこでいう好機が一体なんなのかを掴みかねていた。もやもやしたまま帰路につく。 一話の終盤、「私」は偶然拾った「もちぐまん」がくくりつけられたライトの紐に手を伸ばし、ボロくて狭くて寒い四畳半に明かりを灯す。「小津にさえ、小津にさえ出会わなければ今頃俺は……」。そして、独りで食うには巨大すぎるカステラを貪りながら、バラバラに砕け散ったバラ色のキャンパスライフとボロボロのカステラを重ね合わせ、どうしようもない虚無感と後悔の念に襲われるのであった。不意に大学の時計台が逆回転し出し、エンディングが挿入される。


©︎四畳半主義者の会

 これが第一話の流れだ。第二話以降も各話の最後に時間が巻き戻り、次回へと繋がっていく構成をとる。再び大学一回生から始まり、「私」は映画を作ることもあれば、樋口師匠に弟子入りすることもあり、宗教団体が母体のサークルで騙されるかと思えば、着ぐるみを着てヒーローショーに出演するなどして複数の世界線を渡り歩いていく。ただし、「私」は大学一回生を何度もやりなおしている記憶を引き継いでいないので、複数の世界線といっても、彼が自身を省察できるメタな立場に位置しているわけではない。

そして、様々なサークルを遍歴しても終着点がいつも同じなのだ。どの世界線でも小津や樋口や明石さんと出会い、結果的に「俺のキャンパスライフはこんなはずじゃなかった」となる。鑑賞者はそのようにして「私」がどのサークルに入ろうが滑稽に右往左往し、現状に決して満足できないさまを第十話まで見続ける(もっとも、各話には細かなニュアンスの違いや前後のズレがあって飽きない工夫が施されているため「エンドレスエイト」的な単調な反復はない)。【パートA】と【パートB】を繋ぐ第九話、物語が大きく動いていく直前に「私」は何を思うのか。

 場所は鴨川の三角地帯、通称「鴨川デルタ」。京都の違法駐輪を取り締まり、莫大な利益をあげる秘密結社のマネージャーとして成功を収めてきた「私」は樋口にむけて次のように切り出す。

もっと有意義な人生があったかもしれない。もっとバラ色で、もっと輝いていて、一点の曇りもない学生生活を満喫していたかも。私は自分の可能性を信じてここまでやってきました。どうにかうまくいったけど、何故だか心が寒い。私が選択すべきはもっと別の可能性だったかも。一回生のころに選択を誤ったのかもしれない…。

©︎四畳半主義者の会

周囲の曇天のように暗く濁った眼をした「私」にたいして、樋口は次のように返すのだった。


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可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。君はバニーガールになれるか?パイロットになれるか?アイドル歌手に、必殺技で世界を救うヒーローになれるか?…………。なれるかもしれん。しかし、ありもしないものに目を奪われてはどうにもならん。自分の他の可能性という当てにならないものに望みを託すことが諸悪の根源だ……。いまここにいる君以外、他の何者にもなれない自分を認めなくてはいけない。君が有意義な学生生活を満喫できるわけがない。私が保証するからどっしり構えておれ。バラ色のキャンパスライフなど存在せんのだ。なぜなら世の中はバラ色ではない。実に雑多な色をしてるからね。

 樋口はバラ色のキャンパスライフの虚構性、現実のありのままの色彩を「私」へと突き付け、「いまここ」へと意識を向けるよう促す。老婆の提言や樋口の忠告はこのあとどのように回収されていくのだろうか。

 【パートB】の前半、第十話「四畳半主義者」ではこれまでと打って変わって「私」はいかなるサークルにも所属せず、自宅の四畳半に篭城しながら孤独に自己研鑽を積む世界線にいる。しかしそんな生活を続けて2年、突如「私」は四畳半の時空間から抜け出せなってしまう。ドアを開ければ、今いるはずの四畳半がなぜか出現し、そのドアを開けるとまた四畳半が出現し……といった形で無限に続く四畳半の迷宮に閉じ込められる。


©︎四畳半主義者の会

 「私」はこれを期に、無限の空間と時間を生かして自分だけの理想郷を体現することを目論む。だが、他人や外界にわずらわされることのない世界に数ヶ月も放置されれば、いやでもそれらが恋しくなる。「私」はこの果てなき四畳半を行けるところまで行くことした。そして、数百の四畳半の壁をブチ抜き横切っていくうちに、それぞれの四畳半が微細に異なっていることに気がついていく。そこにあった生活の痕跡の数々は、この世界線では出会うことのなかった様々な他者と別の世界線の「私」が出会い、それなりに充実したキャンパスライフを謳歌していることを物語っていた。ここで「私」は【パートA】の各話で描かれた「他であり得たかも知れない」無数のキャンパスライフを超越的なポジションからイメージし、自らの複数性を認識するに至る。それぞれの四畳半は、「私」の並行世界だったのだ。そして、四畳半に自閉し退廃的な生活を一人で送っていた自分に、小津のような悪友がいてくれたらどれだけキャンパスライフが豊かなものになっただろうかと想像するのだった。


©︎四畳半主義者の会

 そして、気がつく。不毛で退屈だと思われた何気ない日常がどれだけ豊饒であったかを。行動を恐れるあまりいかに今まで四畳半の枠内で自分を守っていたかを。踏み出そうと思えばいつでも踏み出せのにもかかわらず、「いまここ」に目を背け「ここではないどこか」へと逃避ばかりしていた……。「私」は「もちぐまん」を握りながら、これまでブチ抜いてきた部屋の「もちぐまん」を見つめ、覚悟を決めるのだった。好機は、目の前にぶら下がっていたのだ。


©︎四畳半主義者の会

 すると、「私」は外界に出ていた。あたりは祭りで賑わう京都の街。目線の先には見覚えのある人物が大量の人間に取り囲まれていた。小津は、それまで働いてきた数々の悪事のせいで被害を被ってきた有象無象によって、川底に落下する寸前というところまで追い詰められていたのだ。その場には、事態を心配そうに見つめる明石さんの姿もあった。

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 「私」は久方ぶりの仲間たちを目撃し、目頭が熱くなる。感動的なB G Mが挿入される。そして、叫ぶのだ。「小津ウウウウウーーーー!!!」「私」は走り出す。何もかも脱ぎ捨てむき出しに。

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 身を呈して小津をかばおうとするが、「私」は小津と一緒に川底に転落してしまう。被害者らに詰め寄られるものの、樋口が事態を収拾し、足の骨を折った小津は救急車へ。そして「私」はようやく明石さんに「もちぐまん」を返し「ねこラーメン」へと誘うのであった——。

「成就した恋ほど語るに値しないものはない」。そう気障に言ってみせる「私」は明石さんと小津の入院している病室にいた。四畳半から引越し、充実した生活を送っている「私」の表情は明るく余裕がある。また、ベッドで横になっている小津も【パートA】で描かれていた歪みのある顔貌をしていない。実は、小津の顔が歪んでいたのではなく、小津を見る「私」のものの見方自体が歪んでいたのだ。

©︎四畳半主義者の会


『四畳半神話体系』において「大学生」はいかに在るか。ここまで見てきたように、それはバラ色のキャンパスライフを謳歌する者とそうでない者という対照によって描かれていた。ただし、それはあくまで「私」による(…いくらか私怨と自己防衛を感じさせる)単純な図式だ。森見は「私」という人物を介することで、そのような図式に囚われるあまり「自分探し」の迷宮にハマってしまった人間を諧謔的に描出しようとする。「あのとき、こういう選択をしていたら……」。今さら取り返しがつかない事柄に煩悶するあまり前進できず、過ぎ去っていった自分の可能性に想像を巡らすことしかできないフェイズを誰しもが経験したことがあるだろう。そうした想像が成立する条件についても、この作品は示唆を与えてくれる。

 われわれが、別様の自分を想像できてしまうということ。この反実仮想の実行可能性がわれわれの苦悩の源泉でもある。そして、その反実仮想をその反実仮想たらしめているものこそが、あの日あの時の些細な「自己決定」——ただしそれは、ある世界線においてその後の展開を大きく左右する偶有性を常に孕んでいる——にほかならない。「後悔」は、ある決定を選び取らず、別様の自分や現実を仮想することによってはじめて発生する。そしてもちろん、それだけ多くの選択をすることが十分可能なほどに、社会は細分されていなければならならないし、自己と他者の懸隔も開かれていなければならない。差分がなければ別様を想像することなど不可能だからだ。

 一方でわれわれは、無駄に多くのセグメントに分断されているわりに(もしくはそれゆえ)、均質化した経験に埋没している。過度に選択に晒され、他でありえた「私」を容易に想像できてしまうからこそ、自らの人生が平凡でありきたりなことに耐えられない人間たちが量産される。バラ色の(キャンパス)ライフを欲望する人間は、どっから持ち込まれたか判然としない「何者かである自分」の虚像に取り憑かれ彷徨うしかないのだ。四畳半は存在論的なレベルが異なる自己を擬似的に経験可能にする時空間であり、われわれ現代人の住居と言えよう。

 結果的に「私」は、平凡に思える日常に価値を見出したのであった。理想化された生活がただの虚構であることを自覚し、平凡な現実に回帰していった先に探し求めていた幸福はあったのだ。鑑賞者は『四畳半神話体系』で描かれたそのような価値転覆がもたらす帰結をハッピーエンドとして受け取ることを促される。もしかしたらこれを受け、「明日から日常を丁寧に生き、目の前のチャンスを大切にしていこう!」と考える者もいるかも知れない。

 だが、今現在の生活における所在なさに辟易し、現実を混濁と経験している最中の人間が「私」と同じような価値づけをすることは難しいだろう。いや、ややもすると人は無理やりにでもそうしたがるのかもしれない。そうしないと居た堪れないから。けれども、虚構を否定し現実を肯定する、というではより息苦しくなっていきはしないか。現実を認めた先に、救済は果たしてあるのだろうか。

 震災の当日は仲間たちとスタジオに入る予定だった。社会があわただしくなっていくことに呼応し、仮進級が決まったばかりの俺は、何かを変えなければこのまま行き詰まっていくというのっぴきならない焦燥感に駆られていた。そして、次々に高校を中退していく仲間たちや世間の混乱とは距離をとり、最後の一年間を独りで踏ん張ることに決めた。だが、茶色の長髪を黒く染め、生徒手帳に記されている「高校生らしい髪型」の規定に収まるまで前髪や襟足を切り落としたとき、俺は自分の中の「守るべき何か」まで一緒に切り捨ててしまったのかもしれない。そうした実感がたしかにあった。わけもわからず、大人たちに力で理不尽にねじ伏せられている現実に抵抗し続けるのではなく、安泰な道を選んだ。運よく私大に合格し、バラ色のキャンパスライフを送れる「大学生」の身分を手にしたあとも、そのことがずっと喉の奥に引っかかっていた。学年が上がるにつれてその引っかかりは肥大し、いよいよ誤魔化せなくなったときに、現実はまたもや俺に自己決定を迫った。そういうことがその後何度もあったし、いまはないと言えば嘘になる。

 森見の神話体系論は、バラ色のキャンパスライフの不在/虚構を告発することが目的だった。自らの可能性、あれこれと「ここではないどこか」を妄想するのではなく、「いまここ」にありふれている好機を着実に掴み取っていくことで幸福が到来するという物語が展開されていた。

 俺は、この筋書きが嫌いだ。鬱屈し不安定だった「私」が新たな物語を安定してしながら生きていて、現実に心底満足しているところで幕が閉じているからである。すっかり毒抜きされ、歪みが矯正された人間になど、なんの魅力もない。平凡で、退屈で、何かを少し変えても、この現実は変わらない。でもそんな現実を受け入れ、目の前の小さなチャンスに気がつくことで救われる——。こうした価値転覆が起こる瞬間、現実に潜勢する特異性は失われ、現実がまだ見ぬ現実へと変革する可能性も抹殺される。それは同時に、<私>の特異性と変革可能をも支配へと安く売り渡すことを意味している。可能性は常に見出されなければならないのだ。

 たしかに、人間にはその存在を強固に係留してくれる神話や体系——全体性——が必要なのだと思う。しかし、既存のそれとうまく関係を築けない人間もいる。全体性から遠ざけられた人間は、自らと世界を関係づけることができないがために確かな足場を持てず、断片としての生を漂流せざるを得ない。俺は、現実がとにかく不満で、自らを解体/異化し続けなくては気が済まない不安定な人間が好きだ。なぜなら、いかなる神話体系にも納得できない人間——物語を拒む人間——のみが、特殊であるのにもかかわらず普遍として現象している神話体系の存在被拘束性から自由であり、フィクションの実在性1) を証明することができるからだ。新しい全体性を産み出し、人間がもつ無限の想像力に形を与えることができるのは、理想と現実の両極を極端な振れ幅でもって生きるという矛盾に貫かれた人間——かかる人間はリアルに絶望し、リアルを拒絶せざるを得ないがゆえに、新たなリアルを構想し始めるという点で「非リア」に違いない——だけだ。「リア充」になることよりも、「非リア」であり続けることのほうがよっぽど難しく勇気がいる。

 選択可能なオプションが過剰供給されている中で、人びとは特定の全体性をチョイスすることを義務づけられている。どこに住み、誰と付き合い、何を仕事にし、どう生きていくのか。社会に揉まれながら自己を形成していくなかで、誰もがいずれは決定を迫られる。過去・現在・未来、絶えず自らの軌跡をモニタリングし、信頼しうる四畳半を次々にホップしていっても良いし、特定の四畳半にずっと退隠するのもまた良いだろう。けれども、膨大に思える選択肢の数々は案外一つの地点に収束するものだ。無数の物語をかき分けていった結果、行き着く先はそれらを包摂するよりメタで支配的な物語だったりする。四畳半の迷宮に留まろうが、そこから解脱しようが、既存の系に内在している限り行き着く先は原理的に変わらない。

 やっかいなことに、人はそう素直に自らが依っている物語を信仰し切ることができないらしい。誤魔化しようのない強烈な違和感はときに物語の耐久度を凌駕し、当事者にカオスを経験させる。『四畳半神話体系』、英題“Tatami Galaxy”の結末に俺は納得しない。けれども、錬磨されたキャラクターと精錬された物語構造によって、狭っ苦しい小宇宙を突き破っていくことの価値を重層的かつコミカルに表現した森見の技量には感服する。安定していた小宇宙の秩序(コスモス)が崩壊の危機に瀕しているとき、はじめて人は「いまここ」に根差した「ここではないどこか」へとアクセスし、強度ある宇宙系を創造する地平に立っているのだと思う。しかし、それだけでは不十分だ。宇宙を作り、救済の神話をでっちあげることが、やがて支配の力学として作動することをアイロニカルに自覚していなければならない。そうした態度のもとに現実と格闘し、盛大に敗北した時はじめて、自己決定は果たされたことになるのかもしれない。われわれは、目の前にぶら下がっている好機を掴み取れるかどうかではなく、現実にたいしてそのような決定を下し、責任をとることができるかどうかを世界から不断に問われているのだから。



1)三木清は『人生論ノート』のなかで「虚栄」が人間の条件であることを指摘した。「虚栄」はわれわれの宿命である。けれど、一つだけそれを駆逐する方法があるとも論じたのであった。「創造的な生活のみが虚栄を知らない。創造というのはフィクションを作ることである。フィクションの実在性を証明することである」。現実が虚であることを十全に認識したうえで、人間の情念をフィクションとして昇華する者のみが虚栄から自由だ。してみると、やはり創作者たろうとする人間は決して現実を肯定してはならないし、常に否定し続けなければならないのだと思う。

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