2018年×月に読んだ漫画の感想
読み人知らず
筆者はこれまでの人生でほとんど漫画を読んでこなかった。しかし、20世紀美術への関心に付随して、「漫画」という表現形式がそれ自体固有の可能性を持っていることに遅まきながらも気が付き、今年度に入ってから意識的に漫画を読み始めた。その最初の一か月の私的な読書メモをそのまま掲載する。なんとも稚拙な文章であることは自覚しつつ、この稚拙さに逆に興味を抱いて、優れた読み手がその読書メモを公開して是非とも教えを希えたら……と、その稚拙を顧みず寄稿をする所以である。
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2018年×月に読んだ漫画
今月はたくさん漫画を読んだ。1は先月手塚の『奇子』を読んで面白いとは思ったものの、到底彼が「マンガの神様」と言われる所以が分からず、代表作の一つということで読み始めた(だいぶミーハーな始まりである)。一言、圧倒された。これは漫画の神様です。巧みなストーリー、壮大な構想、何よりもまず手塚はあらゆるものに「フェティッシュ」を感じさせる。手塚の好奇心の広さとそれを表現にまで昇華する能力の巧みさ。これは他の追随を許すことはなかろう。22は、近くにいた編集者などから見た手塚像。あれほどの多作でありながら決して妥協を許そうとはしないほとんど「執念」ともいえる漫画への想いに打たれる。ただ、漫画という形式への意識はさほど感じられず残念。9は大塚漫画論をまんがで簡易的に見取り図をつくってくれたもの。半分くらいは手塚論。啓発された部分もあるが、やや思い込みが激しく説得力がない。四方田犬彦『漫画原論』に一票だ。6は、アンチ手塚的なものだと思われている「劇画」創始者のひとり、辰巳ヨシヒロの自伝漫画。歴史的な興味深さはあるが、自意識過剰的な語りに辟易した。
4と13は高野文子。初めて読んだ『黄色い本』は意味不明だったが、幾度か読み返してみると<漫画を読む>ということの格別の愉悦が味わえる。<読む>とは、それが漫画であれ、訓練の必要なことなのだ! 初期作品集『絶対安全剃刀』には魅惑させられた。<漫画ならでは>という表現の数々。実験的でありながら、その実験に「衒い」のないのに好感。すなわち、その実験は決して技巧のみに走るのではなく、内発的必然性にほとんど要請されているものであるのだ(その点、西村ツチカには中身を伴わない実験的技巧に走りすぎではないかと思う)。「ふとん」「田辺のつる」に感激。大胆な構図、コマ割り。漫画という表現形態それ自体に嫉妬させられる。43,44の市川春子も高野フォロワーであろう。一見荒唐無稽な話を巧みな演出で魅せてくれる。今一番お気に入りの作家のひとりである。初連載作『宝石の国』は第一巻だけ読んだが、短編のほうが面白いのではないかという感想(また変わるかもだが)。26,42,59で挙げた宮崎夏次系も、やはり実験的作風強し。鬱屈した青春を幻想的に描いていくが、「おやっ」と思う演出に度々出会ってそれが楽しい。『夕方までに帰るよ』は駄作、『僕は問題ありません』に好感。すぐれて漫画的。「鬱屈した青春」を代弁する夏次系は、浅野いにおの後継者を思わせる。しかし、両者は明確に異なる。宮崎夏次系は短編につよく、浅野いにおは長編に強い。夏次系は詩的情緒の飛躍が心地よい。いにおは劇画的であり表情の付け方もうまく、尖った表現方法を用いることも時にあるが、基本的には長編作家の人であり、「語り部」である。『おやすみプンプン』も『虹ヶ原ホログラフ』もそのプロットは緊密かつほとんど無駄がない。町田洋は不思議な線を描く人である。カクカクとしたデジタルな線。その独特の一見すると下手くそにも思える描線が、しかし、彼のシュールな叙情を可能にしていることが分かってくる。阿部共実の37の作は、その絵柄(文体)のなかに徐々に異質なものを運んできて、どうしようもない惨めさを描く。現代において文体と中身の不一致は一つの手法にまでなっていると言ってよい。同作者の55は同作者かと疑うほどの出来の差。45の今日マチ子は『百人一首ノート』の時に知ったので、二年ほど前か。日常の小さなことを切り取るのがうまく、彼女の一ページ漫画はあたかも現代に生き生きと蘇った短歌のようである。
57の大友克洋『AKIRA』について、その絵の素晴らしさは言うまでもない。今にも動き出しそうな迫力。複雑なパースの使用についてもすでに多くの事が語られている。はじめはヤンキー的な世界観に辟易した。端的に言って、そういうのが嫌いだから。ストーリーについてはさほど優れているとは思わず。この漫画の魅力とは、そのかっこよさにある。24の江口寿史も、そのギャグには着いていけない(さすがに同時代のようには笑えない)。が、その「かわいい線」の洗練された潜在的エネルギーには時代を先取りしていた人なのだと改めて思う。
吾妻ひでおは天才である(5,19,58)。はじめは『失踪日記』から。悲惨な生活のはずなのに、笑って読める軽さがある。だが、そこには深いアイロニーの意識がある。深淵がある。58の『カオスノート』を見てほしい。不条理ナンセンス(それは鶴見俊輔もいうように世界に対する悪意である)を読んでも、作者の優越感情にぶちあたって不快な思いをすることはない。透けて見える悪意とは程度の低い悪意である。より程度の高い悪意は、一見して悪意とは気が付かないものである。そうして、そうした悪意のほうがより性質が悪いものである。吾妻ひでおのナンセンスとはそういったものである。単なる「自虐」とは異なる。そうした点で、同じ出版社から出ているの38や39とは(漫画としてのクオリティはもちろんのこと)、一線を画している。23のつげ義春には、静かな狂気を感じずにはいられない。吾妻ひでおは手塚治虫の線でつげ義春を描いたのではないか。14~18に上げたpanpanyaは、カフカ風の幻想が素敵であり、つい何度も読み返したくなる作家。往年のガロ系作家を思わせる緻密な背景描写と落書きのようなラフなキャラクターのコントラストが印象的。panpanyaの作品でとくに良かったのは商業本初の『足摺り水族館』であった。よく読むと、最新刊『二匹目の金魚』に至るまでのpanpanyaの姿がすでにここに凝縮的に表れていることに気が付くと思う。ある意味でpanpanyaは第一作の自己模倣を延々と続けている。「こち亀」的な心地よさがそこにあることも事実だが、彼がその自己模倣に懊悩したとき、彼は新たな一歩をどこに向かって踏み出すのだろうか? 停滞した反省意識が動き出すことを期待したい。panpanyaの得意分野の一つは、街を歩いている最中にどんどんとよく分からないところに向かっていくときの街の描写だ。ここにはpanpanyaじしんも認める先人がいる。逆柱いみりである(31)。この正真正銘ガロ出身のいみり作品を読むと、いかにpanpanyaが「上品」でポップであるのかがよく分かる。いみり作品のグロテスクには日野日出志を想起した。近藤聡乃『はこにわ虫』もその系譜にあるだろう(コミックアックス!)。が、近藤の場合は少女の想像力のもつグロテスクさである。
その他。東村アキ子は好きになれなかった。岩本ナオの56は「このマンガがすごい!2017年」のオンナ編で一位を取ったらしい。なぜなのだろうか。私にはまったくもって理解しがたい。50,52は適当にブックオフで買った本。失敗。41の中村明日美子はBL作家として著名らしい。悪くはないが、とりたててよいというほどでもない。しかし、54のねむようこにはセンスを感じた。