Kozy Marr

 前回はビートルズを取り上げたこの連載、今回はアメリカの60年代ポピュラーカルチャーに目を向けてみたい[1]。カウンターカルチャーとは、公民権運動やベトナム反戦運動といった反体制政治運動などのエネルギーが、文化やライフスタイルまでに波及したものといえる。シャンタル・ムフによれば、制度的な差別を受けていたり、不可視のものとされていた多くの人々によって、「新しい社会運動」が60年代に台頭し始めた[2]。その人々の運動を受けて、既存の政治体制や社会規範は、変化・拡張を必要とされるようになる。この新しい社会運動の民主的諸要求を受容するか拒否するかという新しい問いが生じた。 

 以上のような特定の制度や規範に反対する運動から、その「反対」、「対抗」する姿勢・態度を日常の生活に取り込むことが目指された。だからこそ、都市からコミューンへ赴き、マリファナで気分を上げ、西洋思想ではなく東洋思想やヨガへ、等々、これまでとは違った生活、ユートピアを求めた人々が数多く存在したのである。60年代カウンターカルチャーは、以上のような運動の盛り上がりの中で生じたものに他ならない。 しかし、カウンターカルチャーがどういう結末を迎えたかというと、決して明るいものではない。例えば、映画産業に関する次の意見を見てみよう。

 (…)1968年、1969年ごろのアメリカは、どこもかしこもヒッピーやカウンターカルチャーで盛り上がっていたわけではなかった。むしろ、局地的な現象だったと考える方が事実に近いだろう。局地的でありながら、カウンターカルチャーはメディアや文化産業によって全国的に知られることになった。インディペンデント・シネマは、カウンターカルチャーの価値観をアメリカ中産階級のテイストに合わせるような形で商品化した。実際にヒッピーになってボヘミアン生活を送ったアメリカ人はごく限られたが、ヒッピー的な価値観に対しては多くの中流階級のアメリカ人は賛同した。「賛同」が言い過ぎなら、少なくとも彼らは強い反感は持たなかった。ボニーとクライドのようなアウトロー的な生き方や、キャプテン・アメリカやビリーのように保守的アメリカ人の偏見の犠牲になってしまう生き方は、商品イメージとして流通した。[3]

 このように、カウンターカルチャーは確かに支持を得たのだが、60年代の終わりを迎えるに当たり、結局のところ体制内に取り込まれることになったということだ。だが、単にそれだけで終わったのだろうか。逆に言えば、この時代をきっかけにして始まり、後の時代に繋がったものもまたあるはずだ。それは何だろうか。これを第二回のテーマとして、前半・後半に分けて60年代カウンターカルチャーについて紹介していきたい。前半は、60年代の文化を盛り上げることになったサイケデリック音楽、LSDについてである。

~サイケデリックロックと意識の革命~

 まず、前回ビートルズを取り上げたので、今回も音楽から話を始めたい。60年代、特に後半のロックはまさにドラッグの天国だったといえる。ドラッグが文化として広がるのは歴史上なかったわけではないが、60年代は、20世紀においてドラッグに最も重みが掛けられた時代だった。というのは、ドラッグは「意識の解放」を実現し新たな表現を行うための期待を向けられたからだ。当時のミュージシャンたちは、新しい表現を求めて、LSDやヘロインといったドラッグを積極的に試すようになっていたのである。従って、サイケデリックを生んだ薬物LSDとロックの関係を押さえることが出来れば、当時の音楽の雰囲気をある程度理解することが可能となる。

 まずは、実際にドラッグ体験はどんなものだったのかをまず確認しておきたい。ここではロックとの関連で良く語られるLSD(通称アシッド)の誕生と効果についてみてみよう。LSDとは、端的に言うと幻覚剤であり、ライムギなどに含まれる麦角アルカロイドを抽出した薬品である。アルカロイド系の薬品は、カフェイン、モルヒネ、ヘロインなど精神に強い効果をもたらすものだ。LSD誕生年は1943年であり、アルバート・ホフマン博士によるものだ。開発者ホフマン博士は一度この薬品の開発を諦めているのだが、とある日、奇妙な使命感によって開発を再開したという経緯がある。不思議なことだが、LSDは誕生そのものがサイケデリックといっても良い。

 LSD発見のきっかけは、ホフマンによる麦角アルカロイドの実験中、試薬が彼の指に付着したことに始まる。彼は不意にめまいを起こした。帰宅後もそれは収まらず、おとなしく様子を見ていたという。だが、しばらくすると景色が輝きだし、目の前で机が踊り、笑っているように見えたらしい。また別の日に、試しに自分から進んで摂取してみると、自転車が一向に進んだ気がしなくなったり、目に映る色が万華鏡のように見える、といった不思議な感覚に襲われたのだという。最終的には、効き目が切れてくるのと同時に非常な爽快感がもたらされた。というわけで、LSDは人生で最も素晴らしい知覚の世界をホフマン博士にもたらすことになったのである。

 ホフマン博士の研究は、以上のような体験談からも注目され、実験でも抑うつ症に効果を上げたらしい。そうした経緯を経て、医学的・薬学的な精神疾患の治療に役割を果たすことが期待された。また、心理学の分野でも、LSDによって多様な精神状態を体験できるのではないかという期待のもと、精神そのもの、無意識への探求を目指す活路と見なされるようになったのである。

 先述の通り、こうした体験にアーティストたちが興味を抱かないはずもなく、例えばボブ・ディランは比較的早くにLSDにはまり、その経験に基づいた曲を早期に取り上げた一人となった。1964年発表の「Mr.tambourine man」という曲がドラッグソングとして有名だ。ただ、ギター一本の弾き語りでの曲であり、歌詞もにおわせるようなものなので一見するとわかりにくい。しかし、ボブ・ディランの性格を考えると確実に下地にLSD経験がある。

 また、イギリスのバンドであるが当時すでにボブ・ディランらと交流のあったビートルズもドラッグを表現に取り入れた。このサイトによればビートルズのLSD体験は1965年ということだ。その年に書かれたDay tripperという曲もその経験がもとになっているらしい[4]。あるいは、1966年に発表された『リボルバー』というアルバムは、変な効果音や逆再生、インドの楽器など、それまでに使われてこなかった要素が盛り込まれている。ジャケットも4人の顔が歪められた姿が映されており、ジャケットもまたアート的絵画となっている。彼らのアルバムの影響力は計り知れず、他のバンドもまたドラッグを表現を拡張する手段として用いるきっかけの一つとなった。

 その他にも、このころからドラッグ経験を作曲やパフォーマンスの幅を広げるものとして捉えていたミュージシャンは数多い。その中でも、グレイトフル・デッドを取り上げないわけにはいかない。彼らはアメリカ西海岸、カリフォルニアを中心に活動していたバンドで、ブルースやカントリーなどの音楽をベースにしつつ、ライブ中にセッションを行ったり即興性を重んじる演奏を行うことで、ライブの雰囲気を高めることを得意とした。その音楽もドラッグを決めながら聴くのにぴったりで、ライブ会場では観客の自由度がかなりあった。観客たちは録音テープを交換し合ったり、自分たちが作ったものを互いに交換したり売買する空間を作って楽しんだ。要するに、彼らの活動は観客との共同体意識を作り上げながら進んでいくものであり、彼らのツアーは、彼らと生活を共にする人々がついて回り、時には数千人規模がツアーを追いかけた。ヒッピーが志向する自然と触れ合いながら、価値観を共有する人たちとの共同生活にちょうど合致するグレイトフル・デッドの活動は、ヒッピー時代の一つの象徴となる。この生活の中で、ドラッグは人々の間で、ハッピーでいるために、そして共通経験を得るために必要不可欠なものの一つとされていったのである。

~サイケデリックの申し子 スタンレー・オーズリー~

 グレイトフル・デッドについて言及したのは他にも重要な理由がある。それは、彼らと行動を共にしたあるスタッフを紹介するためだ。彼の名はスタンレー・オーズリーといい、サウンドエンジニア兼LSD製造・販売業を営み、バンドのロゴをデザインするなど色々な顔を持つ。彼はカウンターカルチャーにドラッグを本格的に導入した人物として、カウンターカルチャーそのものをブーストすると同時に、自身のドラッグ経験を基礎にして後世に残るサウンドシステムを作り上げ、カウンターカルチャーの遺産を生みだしてもいる点で、注目に値する。

 オーズリーは兵役などを経て1963年にカリフォルニア大学バークレー校に入学後、1セメスター後に退学。キャンパス近くの家を拠点にLSD製造を開始した。ネタ元は無数にあっただろう。なぜなら当時は薬品を使ったサイケデリック療法なるものが研究されていたし、化学・薬学と精神の距離が近かったこともあって、薬品入手ルート経路が用意に確立可能だったはずだからだ。また、大学という場(現在は違うが)は得てして、どこからかそういったルートを構築する技能を持った人間を輩出するものである。そういったことで、彼は警察の手を切り抜けつつ、ロサンゼルスに引っ越したり、LSDを布教するためのバスツアー(後述)に参加してアシッドテストを人々に施していく。最終的に彼はカリフォルニア州リッチモンドにLSD製造ラボを設立し、ここを中心に合計500万人回分のLSDを作って販売した。彼の供給する「オーズリー・アシッド」はLSDのスタンダードになる品質を維持し評判を生むほど優秀だった。

 以上がだいたい1967年ごろまでの出来事になる。この期間はカウンターカルチャーにとっても重要な期間だ。ちょうどヒッピー文化が一定の形を確立し、1967年にヘイト・アシュベリー地区Haight-Ashburyを中心として、商売ではなくシェアとオキュパイによって、ヒッピーたちの解放区を作ろうとした「サマー・オブ・ラブ」の時期と重なる。また、モンタレー・ポップ・フェスティバルといった一定規模のフェスが運営されるようになったこともあり、若者層が自分たちのためのイベントを行う機会が生まれ始め、1966~67年はオーズリーが関わりつつ、サイケデリックな音楽を行うグループが次々に作品を世に出し始めている。ビートルズが「マジカル・ミステリーツアー」という極彩色のバスを使った疑似ツアー映画を作成するのもこの時期であるが、ビートルズのためにLSDを渡し、バスツアーというアイデアを与えたのもオーズリーだった。大量のLSDとアイデア、そしてサウンドメイキング技術。彼が伝説的な扱いをされるのも納得いくところだろう。

 たが、これだけのことをやっていたら警察に目をつけられるのも当然で、LSDが違法化となるに従い、オーズリーや周りのミュージシャンも逮捕されていく。オーズリーは諸々のことを経て1970~72年の間収監され一旦活動をストップする。しかし、釈放後すぐさまグレイトフル・デッドは彼を仲間に迎え入れた。なぜなら、音とドラッグを維持し続けるのに彼はなくてはならない人物だったからだ。音楽面では、当時の音響システムの貧弱さからデッドのメンバーは常に不満を抱えており、共同体の皆が楽しむためのライブを支え得る優秀なエンジニアの存在が、満足のいくツアーを行うための必要条件だった。ドラッグの面では言わずもがな、オーズリーがいる限り、彼の作った良質なクスリを日常的に使うことが出来た。

 かくしてオーズリーはデッドの一員となるわけだが、この時期に彼はまた一つ伝説を生む。これはカウンターカルチャーが生んだ遺産の一つとなった。それは1974年に完成した「Wall of Sound」という音響設備の発明である。基本思想は、①クリアな音を出す、②近くでも遠くでも音質を同じにする、この二つのシンプルなポイントに集約可能だ。具体的には、各楽器専用のスピーカーを、塊で設置し、また、ノイズ音を拾うための専用マイクを置くという技術である。

 前者の利点は二つある。一つは、単一ないし少数のスピーカーで生じる音質低下を防ぎ得る点だ。つまり、違う楽器の同音域(低い音同士や高い音同士)が互いに混ざることで生じる雑音を、スピーカー別にばらけさせて消すことが出来る。もう一つは、音の線を作り出せる点だ。通常のスピーカーは円状に音が発信されるので、少数のスピーカーだけだと聞こえてくる音はそれぞれがぶつかって混ざりあってしまう。自宅でなら良いが、広い空間で大音量を要するライブ会場では影響は大きい。これを解消するために、点(一つのスピーカー)を重ねて線(スピーカーのまとまり)を作ることで、それぞれの音像を明確化したのである。これらによって、演奏者にも多数の観客にもクリアな音を届けられる。現代では、自分の音を個別に確認するために演者の目の前に置かれるモニター(返し)と、ステージの左右に天井からぶら下がっているスピーカーのまとまり(音の線、ラインアレイ)が上の技術の発展形だ。

 次に後者のノイズ音を拾うマイクの設置である。これは、マイクに雑音がどうしても入ってしまう事態を逆手に取り、その音を抽出してスピーカーから出すときにカットする技術である。これは現在のノイズキャンセリング技術の原型を成す発想となった。

 以上のように現代にまで応用される技術が、ツアーの中で多くの人々の試行錯誤を経て形づくられていった。しかし、全体像を把握し統率に当たった中心人物の内の一人はオーズリーだった。しかもその全体像は、幻覚剤や他のドラッグにより「音を見ながら」獲得されたようである。空気の振動を視覚的に感じたイメージをもとに、良質なサウンドシステムがどうしたら可能なのか、これがサウンドエンジニアとしてのテーマだった。

 そしてこのテーマは、「拡張された意識の具現化と共有」という、この時代が掲げた目標に到達する一つの在り方でもあった。詳しくは触れることはできないが、この時代には、様々な媒体を用いて意識の拡張、意識の共有が目指された時代でもある。自身の経験を共有するための新しい雑誌やミニコミ、ジャーナリズム潮流、また自身の頭の中にあるイメージを、管理する側ではなく各個人で実現し得るためのパーソナルコンピューターへの志向と、プログラムシェアのためのインターネット構想等々、様々なものが登場した。

 類似の発想が同時多発的に違う分野で目指されるためには、各分野の担い手たちが時代的・世代的に共通の経験を有することが必須条件となるならば、カウンターカルチャーへの接触がその後の担い手にとっての共通経験であり、LSDもその一つだったはずである。竹林によれば、「当時のアメリカ社会の文脈において考えると、LSDはそれほど異端な存在ではなかった」という[5]。なぜなら、管理する側としてのエスタブリッシュメントに対して反抗する記号は多数あり、LSDもその一つに過ぎないといえばそうだからだ。ただし、そうはいっても身体的・精神的効果の点ではLSDは(好悪あるが)強い作用がある分、頭一つ抜けているのではないだろうか。上述の通り、様々な分野のパイオニアが、LSD経験の強い印象を語っている点からもそう思われる。オーズリーもまた、LSDを実際に製造することで多くの人のLSD経験を可能にし、かつ自身もまたそれに基づいた技術を実現した点で、時代の申し子の一人であろう。

~当時のアメリカ精神医療、精神の「管理」~

 以上のように、当時の音楽で一時期大きな流れとなったサイケデリックな音楽は、ドラッグ、とりわけLSDが可能にしたものであったと言える。LSDの効果が肯定的にとらえられたことが、「意識の解放」への有効な手段として使用されるようになった一つの理由ではある。だが、LSDにはもう少し深いストーリーがある。カウンターカルチャーの一部にLSD使用が位置づけられた理由には、文字通りLSD使用によって「対抗すべき」ものがあったからなのである。少し触れたが、それはエスタブリッシュメントの側なのだが、具体的な中身は何だろうか。そこで以下では、当時のアメリカ社会を巡る「精神」の取り扱いから60年代的な雰囲気を紹介してみたいと思う。

 まず押さえておきたいのは、当時のアメリカの精神医療を巡る状況である。アメリカでは、WWII以後しばらくまでは、精神に対する投薬的、外科的な介入を試みる動きが活発だったのだ。そうしたムードの中で、人間の精神を自分たちの力でコントロールする方法が目指されていたわけである。それは、一方では人格管理や戦争への適応状態を作り出す可能性へと、他方ではコントロールを突き抜けた先にある精神の自立や解放への可能性へと向かった。即ち、60年代のドラッグ使用は、意識をコントロールするという発想を共通の根としつつ、それを実現する姿を巡った思想、そして方法それぞれの領域での対立軸の中に置かれるべき事柄なのである。

 最初に前者、つまり精神医療から派生した人格管理や戦争にまつわる話を振り返ろう。まず精神外科について。精神外科とは、文字通り道具によって脳を物理的に操作する治療法を指す。1936年、ウォルター・フリーマン博士が、うつ病患者に対する初めてのロボトミー手術を行った。これは、前頭葉の一部を切開して精神疾患を治す方法として期待され、考案者は1949年にノーベル賞を受賞するまでに至る。ロボトミーは、当初確かに、一度に患者を落ち着かせる効果がみられるとして一分野を形成した。しかし他方では、不可逆的な被害を生むことは当時から分かっていた。現在は効果の上でも倫理の上でもロボトミーは禁止されている。

~国家による利用 MKウルトラ計画、ベトナム戦争でのドラッグ利用~

 また、精神状態を作り替える試みには国家の手が伸びるものである。CIAは1940年代の前身組織の時代から自白剤研究に励んでいた。LSDは他の薬品より有用であったという実験結果が出たために、諜報活動に利用されることとなっていく。今はあまり資料がないらしいが、朝鮮戦争の捕虜への洗脳活動から派生して、MKウルトラ計画というプロジェクトが生まれ、そこにLSDの実験も加えられる[6]。兵士にLSDを投与して、実践での効果を確認しようとした実験の映像も残されている[7]。

 このように、戦争と薬物は付き物で、ベトナム戦争でもアメリカ兵、南ベトナム兵は薬物を常用していた。実に陸軍の兵の内、51%がマリファナを、31%がLSDなどの幻覚剤を、28%がコカインやヘロインなどを使っていたとのデータもあるらしい[8]。要するに戦争はクスリなしでは行えなかったのである。原因は、例えば戦地では薬物の規制がユルユルであり、麻薬製造の黄金地帯が近いこともあって、マリファナやその他の薬物がたやすく入手できたことや、皮肉なことに反戦を唱えたカウンターカルチャーの影響を受けた兵士が手軽に手を出したことにもある。ほかにもたくさんの例が挙げられるだろうが、国家の側からも、精神操作は魅力的に映っていた。

  これらが、精神医療の分野において、患者や前線の兵士といった受け身の立場に置かれる人々の精神に対する介入が行われた事例である。つまり、直接的な仕方で精神を「管理」しようとする手法が政府によって取られていたし、その中心にLSDもあったということだ。他方で、そうした戦争や国家、あるいはさまざまな束縛や介入から抜け出すことが、カウンターカルチャーの担い手にとって強く意識されていたことも明らかである。こちらの側にもLSDが一つのカギになる。次に、ドラッグによる解放の思想を見てみよう。

 ロボトミーも含む精神医療の実態を描いた作品に『カッコーの巣の上で』(原作1962年、映画1975年)というものがある。これは、刑務所の苦役を逃れるために精神障害を装った男が精神病院の中での異物として、患者たちが自らの自立心、人間性に気付くというストーリーで、当時の精神医療の実態を告発するかのようになっている。「管理」と「自由意志」というテーマが背景に垣間見えることもあり、原作当時からカウンターカルチャーを担う層に支持される。作者はケン・キージー Ken Keseyという人間で、『カッコーの巣の上で』は、彼の病院での勤務経験をもとにしている。彼は勤務中、厄介な患者が手術室から静かになって出てくるのを見ていたのだ。また彼は、MKウルトラ計画も少しく把握しており、LSDについての知識を持ち合わせていた。従って、自分たちで意識の解放をしなければならないという使命感を感じていても不思議ではない。

 ホフマン博士や自分が体験したような新鮮で素晴らしい意識体験を広めることが出来るのではないか。ひいては、自分たちを操作し抑圧しようとする者たちと同様の手段によって、あくまで平和的な実践を行なうことは出来るのか。若い世代にはこれが可能なのではないだろうか。これがキージーのテーマだったのではないだろうか。彼は極彩色にペイントしたバスを使って、各地を集団で回るツアー(アシッド・テスト・ツアー)を敢行し、若者に意識の解放と革命を説いて回ることになる。ちなみに先のオーズリーやグレイトフル・デッドの面々もこのアシッド・テスト・ツアーに参加している。

~ティモシー・リアリーとドロップアウトの意味~

 こうした動きに共鳴した心理学者の中で、代表的な人間を一人挙げるとすれば、ティモシー・リアリーを置いて他にはいない。彼はドラッグに出会う以前も、人格形成理論に関する優秀な業績を上げていたのだが、既にLSDに出会う以前に、マジック・マッシュルームに含まれる成分、シロシピンによって人格を変化させることが出来ることに注目していた。 そうした前段を経て、ある日LSDをやって医師から神秘主義者に転身した知り合いからLSDを進められる。当然のごとくLSDに関しても強い可能性を感じたリアリーは、それ以後本格的に、ドラッグを使用が意識の深層に繋がるかどうか、真の自己を見出すことが出来るかどうかを追求することになる。その流れのなかで、『チベット死者の書』を参照したり、LSDワークショップを行なったり、自身の思想をレコードで発売し、思想の拡散のために最適だったケン・キージーのバスツアーにも参加し交流を重ねていく。

 その活動の中で、彼は有名なスローガンを提唱した。それは〈Turn on, Tune in, Drop out〉というものである。これがドロップアウトの起源ではなかろうか。意味は今とそれほど変わらないが、イメージとしては、当時のラジオやテレビのように、電源ノブをonにし、波長(チャンネル)を合わせ、あとはクスリの効果に身を任せる、というような感じである。このイメージが、既成の社会、規範から抜け出すイメージと重ねられ、ドラッグはドロップアウトの最適な手段と見なされるようになったのだ。解放された意識において見えた自己の姿、あるいは共同体の姿を青写真として、現状の社会ではありえない、平和で豊かなもう一つの社会を作り出すこと、こうした思想は、物質文明から離れ、素朴で豊かな自然を目指すコミューン思想と明らかにリンクするものでもあった。即ち、このスローガンはまさに当時のカウンターカルチャーを端的に表すものとなったのである(ちなみにこのスローガンは、メディア論で有名なマクルーハンがアイデアを提供したとのことで、まさにキャッチコピー的要素、つまりマーケティングが意識されたものであったことは皮肉なのだが)。

 以上で、精神のコントロールを巡る二つの流れを見てきた。外科、薬学、心理学、多くの分野が発展段階にある中で、精神を管理する流れとそれを脱する流れが対峙していたのである。こうした二項対立は、当時でも議論の形式としてはありふれたものであったに違いない。しかし、上では十分に触れることが出来なかったものの、自分たちが置かれる対立図式を見出すと同時にその転覆が最も強く意識された時代が60年代でもあった。ドラッグは、様々なものからの自由を目指す人々にとって、思想的、観念的な段階にとどまらず直接に自身を解放された状態に移すことのできる手段であった点で強力な武器であったはずなのだ。もちろん、安易に手を出して身を崩したものは数知れず、トラブルの種となったことも事実である。ヒッピーたちも早々と弊害を認識していたという説もあるし、60年代後半に法規制が行われたことで、LSDは単に肯定的な意味で言明されることは少なくなった。だがそれでもやはり、これがもたらしたものについて語らないことは60年代を語る上で片手落ちになってしまうであろう。


[1] これらのことについては、Wikipediaでも記事が充実しているので、おすすめである。 

[2] ムフは、「都市社会運動、環境運動、反権威主義運動、反制度的運動、フェミニズム運動、反レイシズム運動、民族解放運動、地域闘争、そしてセクシャル・マイノリティ運動」などを挙げる。(シャンタル・ムフ、『左派ポピュリズムのために』、p.41-59.、山本圭、塩田潤訳、明石書店、2019年。)。   

[3] 竹林修一、 『カウンターカルチャーのアメリカ ―希望と失望の1960年代―』(第2版)、大学教育出版、2019年、p.115.

[4] https://www.beatlesbible.com/features/drugs/3/#LSD_(part_one) 

[5] 竹林修一、 『カウンターカルチャーのアメリカ ―希望と失望の1960年代―』(第2版)、大学教育出版、2019年、p.52.

[6] https://www.nytimes.com/packages/pdf/national/13inmate_ProjectMKULTRA.pdf この報告書によれば、実験は事前情報を知らせないまま投薬を行った場合もあるという(リンク先資料、p.68.)。

[7]  https://www.youtube.com/watch?v=zLCzR34HfVQ

[8] https://www.history.com/news/drug-use-in-vietnam

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