救救孩子

 今現在最強の格闘技は決まっていない 

最強の格闘技はなにか。空手、キックボクシング、ボクシング、ムエタイ、散打、テコンドー、カポエイラ、ジークンドー、少林寺拳法、中国拳法、日本拳法、アマチュアレスリング、古武道、相撲、柔道、サンボ、シュート、プロレスリング、合気道、ブラジリアン柔術、多種ある格闘技が、ルール無しで戦ったとき、スポーツではなく、目突き金的ありの「喧嘩」でた戦った時、最強の格闘技はなにか。

 この問いを主題として描きあげられた作品が、漫画『喧嘩商売』(後『喧嘩稼業』改題)である。しかし、喧嘩という設定でなくとも、格闘技に興味をもつものであれば、一度はその問いを胸に秘めたことがあるであろう。多少の制約は存在するものの、比較的自由度の高い競技でいえば、総合格闘技がある。この競技はパンチやキックを中心とした打撃の技術に、組み合って投げることを中心とした相手を制圧するレスリング系の技術、そして関節をはじめとした人体のいくつかの箇所を極め相手の自由を奪う柔術系の技術、これらを駆使して戦うことが許されている。90年代頃よりこの競技は大きな人気を呼び、果ては紅白歌合戦などとならぶ大晦日の風物詩となった。では、この打投極のすべてを駆使することが許される競技において、最も強い格闘技はなにであったか?多少、格闘技に明るいものであれば、次のように答えるであろう。「総合格闘技である」と。猪木VSアリを代表とする異種格闘技戦よりはや幾星霜、もしUWFの分裂、修斗、UFCの誕生、高田対ヒクソンまでの一連のながれを現代における総合格闘技の起点のまとまりのひとつとするのであれば、PRIDEやDREAMなどのブームを経て、すでに20年近い月日が経っていた。その間の競技性および技術の向上によって、総合格闘技は、ボクシング技術とレスリング技術を主軸とした格闘技術を、文字通り総合的に駆使することのできなければ、勝利しがたいものとなっていた。また、格闘技への理解が進むことによって次のような見解も格闘技に明るいものにとって比較的通説となっている。即ち、その競技においてはその競技者が最も強い、ということである。より噛み砕いていえば、ボクシングにおいて最強の格闘技はボクシングであり、キックボクシングにおいて最強の格闘技はキックボクシングなのである。これは、競技という特性を考えれば当然のことである。その競技にはその競技用のルールがあり、その競技に適した技術やセオリーがあり、別の競技になれば当然ことなる技術が必要とされる。その競技では当たり前のことが、別の競技ではご法度になることまで少なくはないのである。ときには競技が似ていても団体によってルールが異なり、そのルールに適応した技術・戦略・戦術がなければ勝つのは難しくなる。よって最強の格闘技という問いに対する最適解なるものは、ルールによる、ということになるのである。さらに言えば、最強の格闘技なるものは存在せず、むしろ格闘技を見る者は、最強の格闘技はなにかという疑問を持って観戦するのではなく、最強の格闘家は誰か、ということの方が重要になってくるともいえる。

 では、はたして最強の格闘技はなにか?という問いはまったくをもって意義をもたないものとなってしまったのだろうか。その答えは否、といえるであろう。いまだに、人々は最強の格闘家だけではなく、最強の格闘技にも夢を見るときがある。それを示すのが、2020年8月9日に行われたRIZIN.22である。この大会である格闘家の入場が聴衆を湧かせた。矢地祐介である。このとき矢地はブルース・リーの『燃えよドラゴン』のテーマ曲を普段の入場曲に加えて入場してきたのである。この演出がなぜ盛り上がることとなったのか。矢地はこの試合以前に自身のYoutubeチャンネルにてワンインチパンチの指導を受けたことが縁となり、以降ジークンドーの技術に触れることとなった。矢地が次第にジークンドーにのめりこんでいく姿は、いつしか矢地にある期待を抱かせることとなる。それは、「最適解」が決まっているであろう現代MMAにおいて「イレギュラー」なジークンドーの技術が活躍してくれるのではないか、という「幻想」である。そして、矢地は試合開始早々よりジーグンドーのサイドキックのような攻撃を繰り出すも、相手よりテイクダウンをとられ、惜しくも敗北を喫することとなる。試合後、ジークンドーを取り入れようとしたことについての議論がネットを駆け巡った。曰く、ジークンドーのようなMMAにおいて「不確か」な技術ではなく、ボクシングとレスリングを磨けといった意見、またあるいは修得期間が短い状態ではまだ活かせているかどうかの判断すらつかないという意見。議論はいくつかあったが、基本的にはその題は現代MMAにおいてボクシングとレスリング以外の格闘技が活躍できるかどうかといったところに根を張っているであろう。しかし、そこにはひょっとしたら最強の格闘技は存在するのかもしれないという「願望」が潜んでいるのかもしれない。誤解を恐れずにいうのであれば、最強の格闘技はなにかという「幻想」はいまだに生きているといえよう。

 しかし、「幻想」とはなんであろうか。この文章で「幻想」なるものを定義することははっきり言って無理があるであろう。数々の知見と数々の先駆者が「幻想」なるものに挑んでおり、この問題と正面切ってやりあうにはそれこそ学術論文レベルのクオリティが要求される。よって、この文章では「幻想」なるものを曖昧な幅のある捉え方でしか定めることはできない。この文章における「幻想」は、ひとまずそうあってほしい、そうなのではないかという願いやそのように信じていること、そしてそれを比較的多くの人が共有していることがその成立の要素となるであろう。そのような願いや信仰の実現が望まれるとき、実在非実在を問わず、「幻想」という「形」となって「我々」の前に登場し「我々」を熱中させる。また、「幻想」という言葉に対し、「リアル」や「現実」といったものがある。これまた定義するのが難しく、また安易に使うには危険な言葉であるが、最強格闘技議論においては、おそらく試合結果や勝率などが「リアル」や「現実」に相当するものとして使われている印象がある。この文章ではあえてそこの土台にのりながら、適時「幻想」と「リアル」、「現実」を相対させていくことになる。

 そもそも最強格闘技議論がいまだ絶えず存在するのは、現代格闘技の歴史からみてある意味必然なことであった。現代MMAの発展については、何人かのものがすでに述べているが、MMA言語化挑戦中 GI氏による「日本MMAの歴史 第一部 日本の源流その名はUWF〜MMAを創った四人の男たち〜」(http://www.youtube.com/watch?v=lS9hSHOmRvM)がわかりやすいであろう。よって、具体的な部分はこういった動画や記事を見ていただくとして、本文章では省略し、おおまかな記述のみをしていく。さらに、現代MMAの起源をどこに求めるかは見解はいくつかあるにせよ、上述のUWFの件を踏まえても、UFCの登場は最強格闘技議論にとっても大きな影響をもたらしている。グレイシー柔術である。グレイシーの登場以降、それまで最強と信じられていた高田延彦をはじめとしたプロレスラーの多くがこのグレイシー柔術の前に敗れていった。そして、プロレスのような試合形式ではない形で試合結果が示される競技としてのMMAが「リアル」なものとして受け取られ、「リアル」なMMAにおいて最も強いのが柔術だという見解が登場する。グレイシー柔術最強説である。ここに初期MMAにおいてすでに、最強格闘技議論はセットのようなものであったことに気付かされる。だが、プロレスが最強という「幻想」は完全に消えたのかというとそうではない。桜庭和志を初めとしたプロレスラーのMMAでの勝利は、彼が「プロレスラーは強いんです」と発言したように、プロレスこそ最強だという「幻想」を存続させた。こういった経緯から言ってしまえば、なにが最強かという「幻想」はむしろ「リアル」なものによってかなりの程度補強されていたのである。しかし、MMAが発展すればするほど、冒頭でのべたように、ボクシング技術やレスリング技術といった技術を総合的に扱う「総合格闘技」こそMMAにおいて最強ということになっていく。

 しかし、こうした「最適解」のみで、人々はこの競技に熱中できるのであろうか。もちろんスポーツにおいては技術論や戦略論も鑑賞の醍醐味となっている。その一方で、その競技の「夢」を簡単に捨てきれるほど人々は強くもなく、検証可能な「リアル」なものにすがっていなければならないほど弱くもない。プロレスラーがMMAにおいて勝利を収めたときのように、また矢地の例が示すように、「夢」見る対象が登場すれば、人々は底に置いた願望を一気に地上にまで吹き上がらせるのである。UMAのように、いないとはわかっている、しかしいてほしいという願いは共存しているのである。そしてその実現性が高くなるとき、一気にその願いは「幻想」として形を成す。

 ここにもう一つの例がある。空手である。空手ほど「幻想」を引き受けた格闘技はないであろう。『空手バカ一代』の影響もつよいのか、空手は漫画やドラマ、映画といった世界でいまだに「最強」のキャラクターを与えられることがある。また2020年にもなって、以下のような空手ドリームの記事が登場するのもその一環であろう(http://president.jp/articles/-/36724?page=1)。しかし、その空手も一時期ほど最強の一角としてみられることは減った。90年代にはじまった立ち技格闘技「K-1」は極真空手の系譜である「正道会館」との関係が深いこともあってか、空手出身の選手が出場していた。アンディ・フグなどは代名詞のかかと落としも伴ってお茶の間においても人気を博した選手であった。しかし、K-1も発展するにつれて、空手のみで勝利するのは難しくなり、ムエタイやキックボクシングの技術が必要となってくる。空手がバックボーンという選手はいまだに多いが、グローブでの技術や、ボクシングの技術がなければ勝つことは難しく、空手出身どころか最初からキックボクシングを始める選手も少なくないであろう。いまや空手は立ち技格闘技において最強の格闘技なのではなく、バックボーンの一つくらいに収まっているといえる。だが、K-1全盛時代もっとも空手のなかで日陰をみていたのはおそらく伝統派の空手であろう。直接打撃制ではなく、ライトコンタクトであり、ステップを多用していた伝統派の空手の組手はぴょんぴょん空手や寸止め空手と格闘技すらやったことのあるかも疑わしい2ちゃんねるの住人を中心に揶揄されていた。(筆者がこの伝統派の空手をやっていたころは、防具があったとはいえ寸止めだった記憶はないのだが、時代によるものなのだろうか?)。しかしその伝統派の空手がここにきて復権している。MMAでのリョート・マチダや堀口恭司といった伝統派空手出身の選手の活躍である。当然彼らも現代MMAの技術を多分に使用しているが、彼らは空手が単なるバックボーンというだけでなく、その構えや技術をメインとして活かし戦う姿が見受けられる。また菊野克紀はフルコン空手の経験に加え、伝統派の空手の構えや突きを取り入れて試合に参戦している。この姿に沸くとき、勝敗如何に関わらず、空手最強の「幻想」は忽ちに復活する。キックボクシングなどの立ち技競技において有効かどうかは今後も注視が必要であるが、遠い間合いからの攻撃などを使用する伝統派空手への注目はかつて寸止めと揶揄されていた現状から大きく復権したといえるであろう。ひょっとしたらフルコンの空手も復権する日が近いのかもしれない。 また、空手といえば実は競技以外にももう一つの最強の「幻想」をつくりあげていることは実に興味深い。とくにYoutubeチャンネルのkuro-obi worldの人気がそれに反映されているとも考えられる。その最強の「幻想」とは、競技ではない「実戦」における伝統武術の強さである。kuro-obi worldでは空手の型の解説をはじめ、琉球空手や中国武術、少林寺拳法など各伝統武道との技術交流を見せ、さらにその技の解説によって、伝統武術の技術がいったいどのような「戦闘」を想定していたのかを再解釈する様を提示する。その技術解説においては、スポーツ的な速度以外の「はやさ」の想定などが存在し、みるものに武道の奥深さを実感させるとともに、あるものにとってはルールの存在しない、かつ競技的ではない戦いでは、伝統武道こそが最強なのではないかという「幻想」すら抱かせているであろう。余談ではあるが、kuro-obi worldの醍醐味には、空手の各流派や各伝統武道とのお互いの敬意を感じられる交流があるが、これは一昔前では考えられなかった光景であり、時代の影響もあってか、Youtuberでもある空手の競技者は、フルコンだ伝統だを問わず、さらに空手かどうかも問わず、技術交流をするさまを多く流している現状がある。実を言ってしまえば、ひとつの格闘技がその技術のみを固執し続けることはありえず、どこかのタイミングで別の技術が導入され進化することもあるのである。最強の格闘技という「幻想」が抱える複雑さはここにある。言ってしまえば最強の格闘技はなにか、という問いに結論が出たとしても、その格闘技が最適解であり、それで終わりであるということはありえず、常に様々な格闘技が進化しつづけ、それにあわせ、最強格闘技議論も終わることはない。そのために、現代格闘技においてもまた「幻想」が存在しつづけるしかけとなっているのかもしれない。

 ここまで、現代MMAが「幻想」を伴い続けてきたこと、最強格闘議論においてはひとつの格闘技の「強さ」がめまぐるしく変化し、復権することがあるということ、そして伝統武術がもつ「幻想」についてを確認してきた。矢地の例に立ち戻ろう。矢地への期待というのは、おもにこれらの諸要因が複合した結果といえるであろう。現代MMA発足時あるいは前夜より存在した異種格闘技戦からつらなる最強の格闘技はなにかという問い、最適解が示されているMMAにおける技術を覆すいまだ発見されていないイレギュラーが存在するのではないかという願望、もし競技ではない形で技術を研鑽していた武術が競技に参戦した場合どうなるかという好奇心、そしてそれが勝利を収めるのではないかという期待……。矢地がジークンドーとともに背負わされた期待は最強の格闘技という「幻想」と地続きのものであったといえるであろう。しかし、矢地のジークンドーが期待を抱かれ、現代MMAという舞台にあげられたようのと同様に、あるいは伝統派空手がリョート・マチダや堀口によって現代MMAという競技の舞台にあげられ光を浴びたたように、ほかの格闘技、伝統武術もまた、最適解が決まったはずの戦いの場にまだ見ぬ、あるいはその最適解という「現実」を覆す「幻想」の登場がまたれている。最強の格闘家となかば等しい形で、最強の格闘技の登場を人々はなおも夢をみる。もし、そのような形となった「幻想」が「実現」しても、最強格闘技議論は終わらない。ルールを完全になくし、スポーツではなく、目つき、金的ありの異種格闘技戦が行われたとき、最強の格闘技はなにかという問いがそのあとには控えているからである。あるいはそういった戦いの場の実現すらも「幻想」であるのかもしれない……。最強の格闘技議論は終わらない。今日も人々は「夢」を食い、生きる。

 今現在最強の格闘技は決まっていない。

※追記:本稿は執筆者の気力・体力の限界もあって全ての事柄に触れることはかなわかった。読者のなかで「アレについて触れていないじゃないか!」と思われることもあるかもしれないが、ご容赦いただきたい。

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