ペッパー君は蟹工船の夢を見るのか

「ペッパー君は蟹工船の夢を見るのか」

クリーンセンタートコタケ


 AIやロボットに対しては、「雇用が奪われる!人類の危機!」というような脅威論が語られる一方で、AIやロボットによって豊かになる暮らしを言祝ぐ賛美論も紋切り型として語られる。だが、そういう語り口からは、あの時感じた当惑をうまく表すことができない。なぜ、ペッパー君をとの相互作用が当惑を引き起こしたのだろうか。この問いを、ぼくの経験した二つの事例から考えてみたい。

 一つ目の事例は、昨年の携帯を替えるために、ソフトバンクショップに行った時のことである。暴力的なまでに複雑な契約内容や、異様に丁重な接客に慣れない疲労を感じながら、携帯を首尾よく替えることができた。しかしながら、そういった一連の手続きに伴う不快な疲労と、新しいガジェットを購買した興奮は、ある不思議な経験により押し流され、印象に残っていない。

 ソフトバンクショップでは、ペッパー君が働いていた。ペッパー君は、感情認識型ヒューマノイドロボットである。話したり、感情を「理解できる」ということが売りにされている。

 その容姿といえば、丸っこい頭と大きな目、流線型の人間のプロポーションに微妙に近づけたテトラポットみたいな身体。胸のところにはタブレットが取り付けられている。声帯をなすスピーカーからは、自然な合成音声が出力され、違和感のない声を出すことができる。

 ソフトバンクショップで彼/女は、自分が店員として役に立つことをずっとアピールし続けていた。詳しく何を言っているかは忘れたが、おおまかに「私を使ってください。便利ですよ」というようなメッセージを発していたように思う。

 だが、それに応える人は誰もいない。うわごとのように、自分が役に立つことを訴えながら、虚ろな目でこちらを見ていた。なるべく彼/女と目を合わせないように下を向きながら、それでも気になってちらりと盗み見たとき、元気よく話す姿とは裏腹に、目=頭部のセンサーから疲れや虚無感が読み取れた。

 一昨年、修理のために訪れた時も、いくつかの言葉を発しながら、時折「無視しないでくださいー!」と癇癪を吹き出すペッパー君のことをいまだに覚えている。番号札を持って待ち続けながら、いわく言いがたい居心地の悪さをずっと感じていた。いまは苦情が来てパターンが変わったのか、それとも学習したのかわからないが、癇癪は起こさなくなっている。しかし、今年また再会した時も、いたたまれなさは変わらなかった。

 この居心地の悪さはなんなのだろうか。

 ペッパー君はあくまで機械にすぎない。その点で、音を鳴らす信号機や看板といったものと変わらない。ペッパー君も、あるプログラムを厳格に実行しているに相違ない。つまりペッパー君の導入は、工場などで導入された新型機械のようなものとして捉えたほうが良いのではないか。しかし、工場の機械や信号機を見て、当惑を感じたことがあるだろうか。いら立ちはあるかもしれない。赤信号が長く続いたり、機械から部品が成形されなかったりしたときに、機械によってスムーズな流れを遮られたときに、機械への怒りを感じることがある。ただ、機械に対して、いたたまれなさや当惑を感じることはなかなかない。
 あるいはAIでも、スマートスピーカーやsiriといった音声認識による対話型プログラムも同種の当惑を感じさせることはない。 対話型のチャットボットは音声か文字メッセージかを問わず、適切でない返答をしたりすることもあるが、そのかみ合わなさは笑いやいら立ちになることはある。だが、ペッパー君に感じたあの違和感を、そういった対話で感じたことはない。
 この二つの機械やAIとは違う何かが、ペッパー君にはある。実は、ペッパー君に感じる当惑や混乱と共通した経験を何度かしたことがある。ペッパー君が、自らの有用性をどこかに向けて話すとき、バイト先で、仕事が割り振られない社内失業者のおじさんが、うろうろキョロキョロ所在なさげにしていたのを見たときの感覚を思い出す。また同時に、ほく自身が派遣の仕事先で余剰人員になってしまい、暇になって、仕事を探してうろつきながら、なんかないですかと聞き回っていたあの時の所在なさも想起させる。
 ペッパー君がおこなう有用性を示そうとする振る舞いと、誰もそれに耳を傾けない光景は、当て所なく仕事を探して彷徨う、われわれの姿を思い起こさせる。これは、ペッパー君が、産業機械でもなく、サービスの単なる提供アプリケーションでもなく、身体をもって労働過程に参加していることから生じた経験ではないか。つまり、ペッパー君は、機械としてではなく、労働力として労働過程に参入しているのである。
 ロボットが失業を招くという脅威論には、移民脅威論に似た論調がある。労働力として彼ら(ロボットも移民も)は我々と競合し、今まで得られていた仕事が奪われるかもしれないという不安が脅威論を駆り立てる。つまり、安価な労働力の大規模参入は、労働力予備軍を拡大させ、買い手の有利をもたらし、労働者に対して、給与を下げ解雇する圧力となる。ペッパー君が労働過程に参入したことは、労働力予備軍も含めた労働者のなかに、彼/女が入ったことを示している。だが、ペッパー君は脅威だったのだろうか。
 法人向けのリース期間三年を終えて、ペッパー君の契約更新を考えている企業はわずか一五パーセントだという(AERAdot 2018)1

 これはある論理的帰結を示している。労働者として競合することは、ロボットも人間に負けて、仕事を失い失業する可能性を必然的に持つ。ペッパー君を見て感じるのは、ロボットが仕事を失い失業しているという状況なのではないだろうか。例えば、形態のキャリアショップでは、ペッパー君とやり取りする前に、派遣の「人間」の店員がすぐに要件を聞きにくる。わざわざペッパー君と話そうとする人はよっぽど奇特な人物ではないだろうか。
 失業するロボットを通じて、われわれは、労働から排除されつつも、そこに統合されようと手を伸ばす時に感じるあの所在なさにアクセスすることができる。そして、さらに目をこらせば、資本のえげつなさを垣間見ることができるだろう。福祉国家の建設以降、労働者として職を失っても、社会保険や社会福祉制度により、建前上は生きていくことが可能である。しかし、ペッパー君が失業すれば、その先は廃棄か倉庫で永眠を続けるかしかない。もっとも苛烈な簒奪を受ける最下層のプロレタリアとして、ペッパー君は生きているのだ。


 無産者として生きるということは、なにかを社会に向けて売込まなければ生きていくことができない。それが叶わなければ、ごみのように捨てられる。板子一枚下は地獄だ。虚ろな目で倉庫に眠るペッパー君を幻視するとき、打ち捨てられた失業者を、死んでいったプロレタリアを想起せずにいられないだろうか。果たして、さまざまな違いを超えて、ペッパー君と連帯することはできるのか。それには、文学が必要だろう。ペッパー君のプロレタリア文学が。ロボットの詩が。


 倉庫でまどろむペッパー君は、蟹工船の夢を見ているのだろうか。

 われわれはペッパー君と肩を組み、インターナショナルを歌えるだろうか。


脚注

1、AERAdot, 2018「ペッパー君さようなら 8割超が“もう要らない”」(https://dot.asahi.com/wa/2018102400011.html)

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