コジー・マーのお前らこれを聴け 第一回 ビートルズ

『コジー・マーのお前らこれを聴け 第一回 ビートルズ』

Kozy Marr(コジー・マー)



 最高の音楽とは何か、それは未だ決まっていないし、決められることも無いだろう。つまり、自分が好きなものがその人にとって最高のものなのだ。

 それでも、古典として残っている曲、音楽家は存在する。音楽の歴史を語る上で、この曲、この人を語らないわけにはいかないというものがある。本稿では、ビートルズをその一つとして選ぶ。言わずと知れた有名どころであり、一つの学問領域にもなっているバンド、ビートルズ。つまり、彼らは、どんな角度から切っても、多少のことでは語りつくされぬほどの、化け物じみたグループである。

 以下では、私なりにビートルズを紹介したらどうなるかという実験と、紹介したいという意味をこめて、彼らの活動を追ってみた。彼らが活躍した60年代とビートルズの活動との関連、つまり時代との関連から語っていくことにしよう。彼らはあの激動の時代にあって、世界を揺り動かし、また自分たちも揺さぶられ続けたのである。

 (注:しかし、本稿では楽曲の解説はできなかった。というか、音楽理論的知識が無く、上手く出来なかった。これを聴けといいながら陳謝する他ない。最後に代表曲を挙げておいたのでお詫びに変える)


・変わり続けた4人組

 ビートルズ。現代、誰もが一度は耳にしたバンドであり、もはや聖域に位置するとも言えるバンドである。第二次大戦後、西側諸国においては大英帝国の没落とアメリカの台頭というヘゲモニーの交代、それに伴ってアメリカ文化の各国への流入が生じていた。ビートルズはその状況を、まずは本国で変え、そしてアメリカを制圧した。「英国からの侵出The British Invasion」、これは60年代中期にアメリカのポップス界を、イギリスのバンドが制圧したことを指す用語である。しかし、ことビートルズに至っては、この語はポップス界での巨大なセールスを指すに留まらない。即ち、彼らの侵出は、技術革新、資本主義、大衆文化、政治変革など多様な領域に及ぶものだった。1962年のレコードデビューから1970年の解散までの実質活動期間8年、つまり60年代と共にあった彼らは、紛れもなくこの激動の時代を代表する、世界史上の存在といっても言い過ぎではない。

 彼らにそうさせたものは何か。それは彼らの変化を恐れない姿勢に他ならない。革命的な成功にあっても、彼らはやりたいことがあれば、それを成すために迷わず変化を続けた。彼らは変わり続けることで、新たなスタイルを生み出し、先駆者であり続けた。彼らが何をどうやっても新しい試みになるほどに進化していったのである。



・ポップアイコン・ビートルズ ~音楽・ファッション・映像~

 以下では、彼らの活動の中身を追っていく。今日のショービズの起源、基礎固めの一端は、確実に彼らにある。音楽、服装、映像、詩、レコードジャケットなどなどである。


・音楽

 まず音楽面についてみていこう。最初のアルバムから最後のアルバムまで、ビートルズの音は変化していく。それも彼らの流儀に従ってのことだ。当時のチャートは、映画用に費用をかけて作った『サウンドオブミュージック』などのサントラが売れていたり、ポップス界のやり方としても、作詞者・作曲者が作った曲を、会社付の演奏者が演奏し、契約したシンガーが歌うのが主流であった。まだまだ、自分たちの曲をやるバンドばっかりというわけではなかった。むしろ「サブカル」的扱いだったわけである。他方ビートルズはそうした旧来の音楽界のやり方に対し、否をたたきつける。製作システムの力を借りず、4人の曲を自分たちで演奏して1位になった。要するにプロを素人が凌駕したのだ。プロデューサーのジョージ・マーティンは、こうした気合に共感し、これまでプロデューサーの上から目線ではなく、4人の発想を形にするチームメイトとなる。このビートルズの気合は、各国の若者に伝播し、ここ日本でもある若者を広島から東京へ走らせた。若き日の矢沢永吉である[1]。

 

 しかし売れれば売れるほど、ライブ会場は大きくなり(客がおさまるためにはスタジアム公演しかなかったためスタジアムライブの先駆けになった)、誰も演奏を聞かずただ騒ぐだけの状況が訪れる。「ヘルプ」はジョンの叫びそのものだった。そんなわけでビートルズはライブをすっぱり辞めた。そして最新技術と最新の薬物(LSD)を携えスタジオに引きこもった(1966年8月29日発表)。雑念を振り払って、自分たちの音に集中したことで様々な実験的な試みが生まれた。彼らは多重録音技術を進化させ、新しいエフェクターを効果的に使い、逆再生やサンプリングを利用した曲、1コードのみの曲、オーケストラ導入、ピアノ三台の弦を同時にハンマーでたたいた音、犬にしか聞こえない音などを収録した。それらはすべて新たな試みとして受け入れられたのである。リアルタイムで進化する技術革新に対応するだけの確かな技能を持っていたが故の芸当だった。

 しかし、スタジオ作業に熱中し、アイデア先行に成りすぎた結果、出来た曲同士の統一性は散漫になりがちだった。それならとポールが提案したのが、バラバラな楽曲を、一つのテーマでまとめたアルバムを作ることだった。それがコンセプトアルバムの先駆である[2]。要するにアルバムを物語作品にしたのだ。歌詞も単なるラブソングから、ドラッグを使った経験を描いたもの、政治的メッセージを入れたものなど色彩豊かになっていく。彼らはポップミュージックの枠を、広く広く押し広げていった。


・視覚

 

 また、彼らの視覚に訴えるセンスも見逃せない。彼らの服装は、革ジャンリーゼント(結成当時)→細身のスーツ(アイドル時代)→サイケ極彩色(サイケ期)→ヒッピー、髭、丸眼鏡、インド系(最後期)と変化し多くのフォロワーを生んだ。アイドル時代の髪型(マッシュルーム)はアストリット・キルヒヘアというドイツ出身の女性がカットしたものである。彼女は、自身のルーツである大陸側で当時流行だった「実存主義者(Exis)」風にビートルズの髪をカットした。

 ステージ上でのお辞儀などの礼儀、ウェットに富んだMCなど、彼らの人への態度に、一応は切りそろえられた髪にスーツという見た目と上手い具合に作用した。即ち、ビートルズは当時の若者文化の象徴としての見た目を持ちながら、同時に上流階級や上の世代にとっても受け入れられる態度を身につけていた(プロデューサーに教育された)。だからこそ階級や世代を超えた市民権を得ることに成功したのである。その後の活躍は、こうした国民的お墨付きに後押しされながら、旧来の文化に成り代わってポップカルチャーが前面に出たことによるものだ。もしいきなりヒッピーみたいな身なりをした態度の悪い若者として登場したのであれば(ヒッピーを否定しているわけではない)、ビートルズは文化ヘゲモニー戦争におけるトロイの木馬にはなり得なかっただろう。

 しかしその後の若者の長髪化(これは軍人カットを忌避する、反ベトナム戦争の流れもあるが)にはつながっていき、若きデヴィッド・ボウイは、長髪への偏見を失くせという運動でテレビにまで出た…。

 また、彼らはミュージシャンの側からの映像製作に着手した先駆者の一人でもある。「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」のPV、映画「ヘルプ」、「マジカル・ミステリー・ツアー」、「レット・イット・ビー」などにより、映像作品上でも彼らは表現を模索した。レコードジャケットも特徴的である。いろんな有名人の顔を集めたり、変な移り方をした写真を使ったり、サイケイラストを使ったり。歌詞をレコードに書いたのもビートルズが初めてだという説もある。これらの要素は、どれも現在の音楽産業に欠かせないものとなっている。

 彼らは、自身の表現欲求をそこかしこの媒体で行った。彼らにとっては何でもありだった。ベビーブーマーが20歳前後を向かえ皆が新たな野心に燃えていた当時の文化潮流に乗り、自身のアイデアを確実に具現化するための技能とパートナーを得たこと。これがビートルズを、自由の体現者たらしめたのである。

 

・ビジネス、技術、ビートルズ

 

 スタジオに入り浸る、映画を作る、ジャケットを時間をかけて練り上げる。こうした活動を、彼らは時間をかけてじっくりと行うことができた。これは、彼らが尋常でないセールスを自分たちの手で獲得したことによるものだ。即ち、巨大なセールスで得た影響力と資金を元手に、常に彼らがやりたいようにやれる環境を整えていた。

  ビートルズが売れたのは確かに彼らの実力でもある。しかし他方で音楽産業自体の拡大があったことも事実である。この拡大は、情報・メディアや、録音自体の技術の発達と期を一にする。

 まず、実際の彼らの売り上げを見てみよう。例えば、彼らのWikiを見ると、レコード解説にはチャート最高位ではなく、「1位獲得週数」が載っている。つまり1位には大抵なる、話はそれからなのである。全英チャートでは1963年5月5日から1964年4月26日まで約一年間、ビートルズの1st『プリーズ・プリーズ・ミー』と『ウィズ・ザ・ビートルズ』という二つアルバムが一位を占め続けている[3]。また全米シングルチャートでも1964年4月4日付のチャートでは1~5位が全部ビートルズであり[4]、生放送の視聴率は72%だった[5]。まさに圧倒的である。彼らはポピュラー音楽界をねじ伏せ、世界制覇を成し遂げ、以後のアルバムでもトップであり続ける。同時に、ミュージシャンも会社側もビートルズを一つのモデルとして動くようになっていく。

 音楽ビジネス界にとっては、ビートルズによって実現されたことのうち、次の二つの点が重要だったと思われる。第一に、アルバム(LP盤[6])を求める人の年齢層が広がったこと。第二に、ライブがスタジアム級の会場で行われるようになったことである。

 第一の理由は、アルバムはシングル(SP盤)の3~4倍の値段であり単純に収益が大きい。なかなか若い人にとっては手の届かないものだったが[7]、若者層も成長し自身で収入を得るようになっていくにつれ、アルバムを手に取る人数が増えていく。他方で、アーティスト側にとっても、アルバムという形態は創造力を存分に生かすために最適だった。単なる3分間の曲以上の表現が可能な媒体だからだ。以上のことは、作り手側にも売る側と買う側、作り手と受け手が一体となった流れだった。

 第二に、ライブ会場の巨大化である。ビートルズの初のスタジアム公演(1965年、ニューヨーク、シェイ・スタジアム)は5万人だった。日本武道館でも1万人近く入った。ポップミュージックの動員力は確信されていたが、問題は音を全員に届かせられるか否かであった。ビートルズがライブを辞めた原因もそこにあるのだが、即ち、まだPA技術、楽器の音をバランスよく調整しつつ、スピーカーを通して会場全体に届かせる技術が整っていなかったのだ。しかし、奇しくもビートルズがライブを辞めた時期と交わるように、PA技術は発展していく。60年代後半になると、大型フェスが乱発されるようになり、人気ミュージシャンが一同に会する会場に、数十万単位の客が集められるようになる。

 最後に、1967年BBCの企画で、世界五大陸を結ぶ衛星放送番組「アワ・ワールド」が放送され、ビートルズが主役の一人になったことも特記事項だ。五大陸への同時中継は世界初の試みだった。ビートルズはこの放送のために「愛こそすべて(All Need Is Love)」を作った。視聴者数は3億5000万人だった。60年代のアポロ計画真っ只中、まだ宇宙開発がロマンにあふれていた時代である。番組の中でビートルズが出てきたコーナーは「芸術の追求」であった。「ロミオとジュリエット」の映画撮影風景や、バーンスタインのリハーサルと並んでビートルズが現れる。これが意味するところは、ポップカルチャーが、「ハイ」か「サブ」かという上下の関係から離れ、まさに人民のものになったということである。

 ビートルズはこのように世界中の人々に認知されていった。60年代においてグローバルな影響力を持つこと、これは否応無く政治に巻き込まれていくことになる。次節では、最後に政治の季節におけるビートルズの役割についてみていこう。

  

・政治の季節とビートルズ

 

 社会変革においても、ビートルズは一つのキーワードである(今もそうかも)。

ビートルズは労働者階級出身で、しかも有色人種がルーツの音楽をやる長髪の若者である。イギリス本国では、反抗的存在そのものだ。しかし彼らはエリザベス女王の目の前で演奏し、勲章ももらった。先に述べたように、階級や世代、人種を越えたのだ。

 また、当時の冷戦構造の中で、東側諸国では、権力者はビートルズを資本主義的堕落の象徴として蛇蝎のごとく嫌った。しかしビートルズの音楽は闇ルートで鉄のカーテン越えを果たし、ソ連市民はビートルズのレコードの隠し場所に日々工夫を凝らした。チェコでは1968年プラハの春を潰されたことへの抵抗として、「ヘイ・ジュード」が替え歌になりアンセムになった[8]。ブラジルでは現地に元々あった音楽に、ビートルズのサイケ期のアルバムからの影響を合わせた「トロピカリア」という潮流が生まれ[9]、軍事政権打倒に向けた抵抗文化の中心に置かれた。ミュージシャン自身が反体制運動の活動家として国外に逃げたこともある。日本でも、1966年のビートルズの来日公演で、は日本武道館を使うとは何事かということで「ビートルズをたたき出せ」と右翼が街宣車で襲来、警官隊がそれを抑えつつ、ホテル周辺では4人を一目見ようとする観客たちが歓声と悲鳴を上げる地獄絵図が展開され[10]、そんな騒ぎのど真ん中で、三島由紀夫は不思議そうに英国の象徴となった若者4人の演奏を眺めていた。  

 その中でも騒ぎが大きかったのはアメリカである。例えば、1964年、とあるコンサートで黒人席と白人席が分けられていたことに対して反感を抱き、区分けをなくさないとステージはやらんと宣言し、境界を取り除かせた[11]。当時は、公民権運動真っ只中であり、活動家が殺される時代である。加えて、「ビートルズはキリストより有名だ」という発言によって、特に南部保守層から猛反発を食らって、ビートルズ関連のものはすべて燃やすキャンペーンが盛大に行われていた。しかしビートルズは生身でステージに上り、演奏を終えた。

 ビートルズは、あらゆることを可能にした存在、新世代が持つ可能性の象徴だった。それは政治の世界にとっても同じことだ。

 

・おわりに

 

 これまで見てきたように、ビートルズの影響力は多岐にわたる。彼らはポップカルチャーの旗手として、最先端技術の広告塔として、政治的自由のシンボルとして、60年代を生き抜いたのだった。1970年4月10日、ポールが脱退しビートルズは解散する。時に、ジョン29歳、リンゴ29歳、ポール27歳、ジョージ27歳であった。

 最後に、情報の羅列になってしまったので、適当に代表曲を挙げておく。ぜひ一聴を。

 

前期「I wanna hold your hands」、「can’t buy me love」、「all my loving」、「you’ve got to hide your love away」*コーラス、みんなが知ってるのは大体このへんではないか。

 

中期「eight days a week」、「tomorrow never knows」、「sergent peppers lonely hearts club band (reprise)」、「she said she said」、「rain」、「I am the walrus」、「a day in the life」*サイケな雰囲気が好きな方はこの時代。

 

後期「don’t let me down」、「I’ve got a feeling」、「I want you」、「come together」、「blackbird」、「dear prudence」、「here comes the sun」

 


   




[1] 「矢沢永吉 YOU 限りなき夢との出会い 1.avi 

https://www.youtube.com/watch?v=dT0kMa7Voec

[2] 此のアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」の解説については、例えば、渡辺愛子著、「60年代ポップ革命 ~ビートルズとイギリス社会のへゲモニックな関係」(『多元文化』2巻所収、p.166-185, 早稲田大学多元文化学会、2013年)p.171ff.

[3] オフィシャル・チャート社サイトより

(https://www.officialcharts.com/artist/10363/beatles/)

[4] 難波弘之著、「近代レコーディングの冒険 : プロデュースと録音 技術から見たビートルズ,シンセなき時代の革新者 たち」、p.49、『東京音楽大学研究紀要』16巻所収、p.43-58、1992年、東京音楽大学リポジトリhttp://id.nii.ac.jp/1300/00000726/より閲覧。

[5] 『Rock in Golden Age Vol.01 1964 ブリティッシュ・インヴェージョン』(講談社、2004年)、p.8

[6] LP盤はLong Playingの略、SP盤はShort Playingの略。

[7] ちなみに、日本のジャズ喫茶文化もこの事情から生まれたといってもいい。ジャズは一曲が長かったりするので、売る側はシングルでなくてアルバムとして出していた。そうなると、高くて変えない。しかも、いい音で音楽が聞ける環境はない、という学生が大量発生する。60年代はそうした状況だった。従って店で何時間も粘って曲を聞き続ける、というジャズ喫茶が生まれ、文化として定着したのである。

[8] https://youtu.be/MM95iXdTviU

[9] 例えばhttps://www.youtube.com/watch?v=CkydG29xWUU

[10] 当時のテレビ(?)ニュースはこちら。https://www.youtube.com/watch?v=JgehLBGkbJE

 [11] アメリカでの人種差別に反対したビートルズの行動をめぐる記事として以下。

https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-23257220110920(ロイター通信)

https://www.studiorag.com/blog/fushimiten/beatles-racism/3(一般人ファンサイト)

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