中和寅次郎(さしずめインテリだな?)

遊戯考事始

 物心ついた頃にトランプで遊び、小学校に上がる前に花札を覚え、9才の時に初めて麻雀を打った。父が私に教えた麻雀は子どもでもわかるように独自に簡略化されたものではあったが、父母私の小さな三人家族の生活においてアナログゲームは団欒のひと時であった。将棋、チェス、ダイヤモンドゲーム、人生ゲーム、お化け屋敷ゲーム、軍人将棋。誰もが知る有名なアナログゲームからマニアックなゲームまで、我が家の食卓は食事の場から遊戯の場へ、私の成長とともにその遊戯の中身を変えながら、時に応じてその役割を日常の中で変えてきた。トレーディングカードゲームでは小学高学年の時にマジック:ザ・ギャザリングの虜となり、母に覚えさせて週末はデュエルに興じた。もちろん友人にも布教し、私の周りでは遊戯王でもデュエルマスターズでもなくマジックがカードゲームの主流となった。中学生で麻雀の正式なルールを独学で覚え、中学二年生の誕生日プレゼントは麻雀牌と麻雀マットだった。おそらく麻雀は20人ほどの友人に教えた。私の家族、友人との関わりにおいてアナログゲームは常に人生の伴走者としてそこにあった。ゲームは私の研究の本業ではない。だが、ゲームについてつらつら考えることは、自分の人生を陰ながら支えてきたひとつの文化を陽の当たる場所に連れ出し、慰労し、かつ、これからの人生を共に歩んでいくことの紐帯の確認となるのではないか。少なくともこれからの連載は何よりもまず私自身の過去と現在と未来のために書かれることになる。この連載がひとり私を越えて読者諸兄の何がしかの思惟に資することがあれば、執筆者としてこれ以上の僥倖はない。では第一回を始めよう。  アナログゲームといったが、これは単に「ゲーム」とのみ書いた場合「デジタルゲーム」を真っ先に連想されることを防ぐためで、今後デジタルとの対比が必要になった場合において用いる語とし、さしあたり本連載では主に「ボードゲーム」と呼称することにする。これには盤面を必要としないカードゲームなども含まれる。  ボードゲーム自体はチェスやバックギャモンなどを含めれば当然長い歴史を持つわけだが、現在「ボードゲーム」といった場合に遊ばれるものは主に近代以降のものが多いように思われる。日本で「ボードゲーム」という言葉から一般的に連想されるのは人生ゲームなどのすごろくだろうが、それは間違いでないにせよボードゲームの世界のごく狭い一部分に過ぎない。特に1980年代以降ドイツでボードゲームが隆盛することになるのだが[1]、それらのゲームの種類は多岐にわたり、とてもすごろく一つで語ることのできるものではない。本連載ではそれら豊饒なボードゲーム世界の一端を順次紹介していくことになるが、第一回ではひとりの作家に焦点を当てようと思う。本稿で試みるのはボードゲームの作家論だ。では誰を取り上げるのか。 現代ボードゲームの隆盛に貢献した作家のひとりにアレックス・ランドルフ(1922~2004)がいる。今年(2020年)11月に、彼の代表作であり、マインドスポーツオリンピアードの種目であるにもかかわらず長らく絶版だった『ツウィクスト』(1962)が再販されることになり、東京新聞11月10日夕刊でも「米国発「20世紀の囲碁」復活」という見出しで記事化されていたため、彼の名前を最近見知ったという方もいるかもしれない。彼は60年代に日本に居住し将棋の有段者となったことのほか、巷では「ボードゲームの神様」と呼ばれ、「ゲームデザイナー連盟」を創設した一人としてゲーム作家の地位を向上させたことでも知られる[2]。社会における作家の権利獲得といった実務的な貢献ももちろん重要だが、本稿では彼がゲームシステムにどのような要素を導入し、それがいかなる意味をもつのか、その作風について考えていく。

 アレックス・ランドルフのゲームの特徴はしばしば言われることだが、さまざまな要素をそぎ落とした、いたってシンプルなものである。そのシンプルさに私などはもはや美しさすら感じてしまう。非常に単純なゲームシステムなのに奥深い。その深さはシンプルなランドルフ作品のいかなる特徴によってもたらされるのか。私は彼の全作品を遊んだことがあるわけではない[3]。入手可能な範囲でプレイした経験があるものから引き出した考察にとどまらざるを得ず、その限りで作家論の決定版であると胸を張れるものではないことに対する忸怩たる思いがないではないが、数少ない経験からでもある程度作家の特徴を切り出せると信じて筆を進めていこうと思う。なおルールの説明は煩瑣になるのを防ぐため必要最小限にとどめる。あえて簡略化して説明しているところも多々あるので実際に遊ぶ際はルールブックを参照してほしい。 

システムに心を吹き込む

 アブストラクトゲームと呼ばれるゲームの種類がある[i]。基本的には一対一の対戦で、運要素のない理詰めの勝負となる。将棋にせよチェスにせよ、ルールを覚えること自体はさして難しくない。だがそんな難しくないルールにもかかわらず、その攻防は奥深く長らく人々を惹きつけてきた。そんなことは周知のことだ。近年の人工知能の発達により人間がコンピュータに負けることもある。チェッカーなどは解析され尽くし、お互いに最善手を打つと引き分けとなることが証明されたという。理詰めのアブストラクトゲームにおいては計算の限りを尽くせば、いつかは必勝法が見つかるかもしれない。そんな夢のあるようで夢のないゲームの未来を想像するのは容易い。必勝法が存在し、それが周知の事実となっているゲームが果たして人間にとって楽しいものであるのか、甚だ疑問であるが、同時に、誰が勝つのか全ては運に左右されるというのも、おそらくつまらない。 ドイツのボードゲームは運と戦略のバランスが絶妙とよく言われる。ただ、それだけでは畢竟、確率計算次第となることもある。いちいちあらゆるボードゲームの勝利法を演算した上で遊ぶのが楽しいことなのか、これもまた私にはわからないが、ランドルフ作品には完全に計算しきることが不可能な要素が埋め込まれており、これが彼の作品を奥深いものにしていると思われてならない。ではその要素とは何か。人間の心である。 私がランドルフ作品に魅了されるきっかけとなった『ガイスター』(1982)というゲームがある。ボードゲームのおすすめサイトなどでよく紹介されている有名作であり、購入前にYouTubeなどであらかじめプレイ動画を見ていたが正直その時はあまり面白そうとは思えなかった。「まあでもそんなに人気なら騙されたと思ってやってみるか」程度の軽い気持ちで買ってしまったわけだが、実際に遊んでみるとこれがすこぶる面白かった。なぜネット上のルール説明や、プレイ動画では面白さが私に伝わらなかったのか。面白さが十分に伝わらないことを承知で、以下に簡単なルール説明をしよう。


 マス目が書かれた盤面がある。そこにお互い8個のおばけコマを任意の場所に並べる。おばけの動きは上下左右に1マス動くだけで、相手のおばけがいるマスに入ったらそれを取れる。チェスなどのルールとそこは同じだ。だがおばけには自分にだけ見えるように赤と青の二色があり、相手のおばけが何色なのか、互いにわからないようになっている。勝利条件は三つ。(1)相手の青おばけを全て取る。(2)自分の赤おばけを全て相手に取らせる。(3)自分の青おばけで相手の陣地の奥まで行く。ルールは省いたところもあるが基本的にはこのようなものである。(1)と(2)の勝利条件だけではおそらくすぐ千日手になってしまうだろうが、(3)の条件が加わることでおばけコマに移動の方向づけがなされる。すなわち、相手陣地に向かってコマを進めていくということだ。それは同時に、自分からしたら相手のコマがどんどんこちらに近づいてくるということでもあり、このときそのコマが果たして赤なのか青なのかという推理が働く。相手は自分に赤を取らせようとしてきているのかもしれない、いやその裏をかいて素直に青で勝負をかけているのかもしれない、あるいはそう見せかけてやはり赤……等々。今、目の前にいるコマは取るべきか取らないべきか、そこに明確な答えはないということがジレンマを引き起こす。このジレンマに引き裂かれた指し手が最終的に一手を打つ、その拠り所とするものは何であるか。それは相手の心理である。相手はどのような性格の人物なのか、この状況でこの手を打ってくるということは一体何を狙っているのか。一手の決定において参照されるのが相手の心となり、詰まるところコマと盤面という物質を通して人間の心理という非物質的なものに思いをはせていることになる。これがお互いのコマの色を公開していたらただの論理的なアブストラクトゲームとなっていただろう。だがそうはならなかった。盤面から心へ至る道筋がゲームシステムの根幹にある、これがランドルフ作品の大きな特徴なのだ。他の作品も見ておこう。


 『ガイスター』と同じく人気の高い『ハゲタカのえじき』(1988)は、多人数で遊べるカードゲームである。1から10、-1から-5までの得点カードが計15枚あり、プレイヤーはこれらを取り合いその合計が最も高い者が勝利する。得点カードの取り方は次のようになる。各プレイヤーは1から15まで数字が書かれたカードを計15枚、手札としてあらかじめ持っている。得点カードの山札を一枚めくり、各プレイヤーは手札から数字カードを伏せて出す。全員出したら一斉にオープンし、一番数字の大きいカードを出した人がその得点カードを得る。これを山札がなくなるまで、すなわち15回繰り返すのだ。手札も使い切りで、ゲーム中で15枚全て使用することになる。得点が大きいカードを取れば勝利に近づくので当然、「10」の得点カードなどは取り合いになることが予想され、皆15などの高い数字カードを手札から出すだろう。では、15を出した者が複数いたら? 10点は折半するのだろうか。そうはならない。このルールが『ハゲタカのえじき』を高度な心理戦としているのだが、それは「バッティング」と呼ばれるシステムである。すなわち、最も高い数字カードを出している人が複数いた場合(「バッティング」した場合)、かれらは得点カードを得る権利を失い、その次に高い数字を出したものが得点を得ることができるのだ。このルールにより、10点の得点カードを最弱の1で獲得する可能性も生じてくるわけだ。そうなるとプレイヤーはお互いにバッティングしないよう気をつけながらカードを出していくことになる。このとき私たちは相手の心を読むことになる。10点がめくられた。皆は15や14といった高い数字で狙いにいくのか、そうではないのか、ここは1など低い数を出して降りることにし、9点など他の高い得点のために強いカードを温存しておくか、いや他にも同じことを考えている人がいたら……等々。目の前にあるのは数字という極度に抽象的なものであるにもかかわらず、その場で交錯しているのはお互いに何を狙っているのかという人間の具体的な思惑だ。


  『冷たい料理の熱い戦い』(1974)、『ザーガランド』(1982)などすごろくゲームも数多く作っているランドルフだが、後年の作品『チャオチャオ』(1997)もまた心理戦がゲームシステムの根幹をなしている。『チャオチャオ』はスタートからゴールまでたった9マスのすごろくだ。これだけならば誰にでも作れる凡庸なゲームだ。ランドルフはここにどのような工夫を凝らしたか。手番プレイヤーは尋常のすごろくと同じようにさいころを振る。そしてさいころを振って出た目の数だけコマを進めるわけだが、この「出た目」は人に見せないのである。筒の中でさいころを振りその筒に目をあてて「出目」を見るのは自分だけなのだ。そして好きな数を宣言する。出目どおりである必要はない。他のプレイヤーはその宣言が正しいかどうか考え、嘘だと思ったらダウトする。ダウトされたら筒の中身を見せ、嘘だったらそう宣言した人にペナルティ、本当だったらダウトした人にペナルティが与えられる。そうすると手番プレイヤーにとっては常に嘘をつかないことがペナルティを受けない安全な選択肢であるのだが、そうは問屋が卸さない。さいころには1から4までの目はある。しかし5と6は存在せず、代わりに「×」印があり、「×」が出たときにも1から4の目をどれか宣言しなければならない。つまり、3回に1回は嘘をつかなくてはならなくなる計算だ。今、相手が宣言した「4」は嘘なのか本当なのか、相手はあとゴールまで2マス、嘘なら「2」でも「3」でもいいはずだ、だから「4」は本当らしく見える、だがそう思わせて嘘かもしれない……等々。これもそうだ。さいころの出目という、確率に支配された数値を宣言することに「嘘をついている可能性がある」というルールを導入することで、数値が単なる数値として受け取ることができなくなるゲームシステムだ。 三作品をざっと見てきたがこれらに共通する要素が心理戦というものだ。『ガイスター』はアブストラクトゲーム的な盤面でありつつも、そこにお互いのコマの色がわからないというルールが前提にあることで相手のコマの色を常に推理することになる。いわばコマと盤面からお互いの心を読み合うゲームシステムだ。『ハゲタカのえじき』では得点を得るために誰かとバッティングしないようお互いの出そうとしている数字を読み合う必要があり、数字という抽象的なものを通して心を読んでいることになる。『チャオチャオ』は単純なすごろくをベースとして、出目は自分にしかわからない上に、嘘をつかなくてはならない出目が一定確率で出ることから、常に相手が宣言する数値を疑わなくてはならない。さいころの出目という、確率の領域にある数字からこれもまた心を読むことになる。抽象的な、論理的な、確率的な、そうしたアブストラクトな世界にひとつ加えられたスパイスが心理戦の要素であり、人間の心が計算不可能なものである限りそこに必勝法はない。抽象の衣を被った心理戦。シンプルだが深い。そんなランドルフ作品に通底する特徴のひとつとして、心という計り知れない深遠なものをゲームシステムの根幹に据えたことがあるのだ。 そしてこのシステムは同時に、人と人が対面でお互いの言動や表情、しぐさといった非言語的情報を読み取ることをも求め、詰まるところ多分にアナログなゲーム環境においてこそ成り立つものでもある。私がネット上の動画やルール説明を見ても面白さをさして感じなかったのは、ひとえに人間が対面し、お互いの顔色、非言語的コミュニケーションに基づいた腹の探り合いがその面白さの根幹をなしているからだったのだろう。それがデジタルでは味わえないアナログの面白さだ。 抽象的な世界に心理戦を導入したアレックス・ランドルフは、無機的なゲームのシステムに有機的な人の心を吹き込んだという意味においてもやはり、「ボードゲームの神様」と呼ばれるに相応しい作家なのだろう。


[1] 「1983年、ある1つのボードゲームがドイツで誕生します。(…)そのゲームの名は「スコットランドヤード」。(…)それまでもボードゲームには様々な種類がありましたが、以後、「ドイツゲーム」として確立されることになるドイツ発のボードゲームを強烈に印象付けたのは、この「スコットランドヤード」ではないでしょうか」(田中誠『BOARD GAME GUIDE 500』スモール出版、2013)のように、『スコットランドヤード』をその嚆矢とする向きもある。

 [2] ボードゲーム漫画『放課後さいころ倶楽部』1巻では彼について次のように言及される。「50年程前までゲーム作家はゲーム制作会社の一職人という認識でしかなかった。作家の地位の向上とさまざまな権利の獲得に尽力したのが(…)アレックス・ランドルフだ。ゲームのパッケージに初めて作家として名前を載せたのも彼だ。以降それはドイツゲームにおいて、慣例となった。自分の名前がパッケージに印刷される。これがどういうことか分かるか? 会社の商品だったゲームは、その瞬間から作家の作品になったんだ」(中道裕大、小学館、2013)。この漫画における私の最も好きなシーンのひとつである。  

 [3] 私が遊んだ経験のあるランドルフ作品は以下である。 『冷たい料理の熱い戦い』(1974) 原題Die heisse Schlacht am kalten→リメイク版:『ウミガメの島』(2014) 原題Mahe 『バイソン将棋』(1975) 原題Buffalo 『ドメモ』(1975) 原題Domemo 『ザーガランド/魅惑の森~おとぎの国の宝さがし~』(1982) 原題Sagaland/Enchanted Forest *ドイツ年間ゲーム大賞(Spiel des Jahres)受賞 『ガイスター』(1982) 原題Geister 『ハゲタカのえじき』(1988) 原題Hol's der Geier 『ベニス・コネクション』(1988) 原題Venice Connection 『チャオチャオ』(1997) 原題Ciao Ciao 『ビッグ・ショット』(2001) 原題Big Shot   

[4]英語ではabstract game。「①テーマのない抽象的なゲーム。②完全情報公開ゲーム。囲碁や将棋などのようにお互いの手の内が完全に公開され、カードやダイスなど運の要素がないゲーム。2人専用のゲームに多い」(小野卓也『ボードゲームワールド』スモール出版2013)。 

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